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“LOG” 2003
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2003

11-22: 今日は、曇りですが、11月の、曇りなりの、イイ天気です。
“罪悪感”。
突然ですが、生きていると色々なことがあって、それに対して、“罪悪感”を抱いてしまったりします。
そして、人のイイ善人ほど、その“罪悪感”に悩まされたりします。 人がイイからこそ、“あぁ、悪いことしちゃった・・・”と、自分を恥じて、自分を責めてしまったりするんですね。
昨今、思いやりの感覚が薄れかけているようで、逆に殺伐とした感覚が広がっているようではありますが、そんな中で、いろいろな出来事で、“罪悪感”を感じている人は、とても貴重な人の一人かもしれませんね。 もし周りに、悩んでいるような人がいたら、何に悩んでいるかというより、悩むことをする、とても大切な人として、大事にしなければ・・・。

11-9: 昨日某NHKを見ていたら、「セサミ・ストリート」の歴史を扱っていました。
昔から定番的に感じていた「セサミ〜」ですが、あの番組も、かなり“熱い”番組だということがわかりました。
始まったのはもう40年ほど前なのですが、当時からアメリカでは貧困家庭の悪循環というのが問題になっていたそうです。 貧困な家庭では子供達が学校に行く前の段階で、親による基礎的な教育を受けられず、その状態で学校に上がると、満足に授業についてゆけない。 授業についてゆけないと、学校が面白くない。 ドロップアウトする。 学校でドロップアウトすると、普通の職につけない。 普通の職につけないと、貧困になる。 貧困になると、また貧困家庭を作って、自分と同じように将来学校からドロップアウトしてしまう子供達の環境を作ってしまう。
この連鎖をどうにか断ち切らなければいけない、という事で、政府によるプロジェクトが始まったという事です。 当初、子供達向けの施設で対応しようとしたらしいのですが、教育用の人材も含め物理的に不可能でした。 そこでTVを媒介とした画期的な教育が出来ないものか、ということで、現在の「セサミ・ワークショップ」が始まった。 というのが概略です。 もともと愛情に熱いアメリカ人気質で、情熱を込めて作られたのが、画期的な教育番組の「セサミ・ストリート」でした。

下の画像は「セサミ・ワークショップ」へのリンクで、そのページに出てくるこの画像と同じ絵をクリックすると、「セサミストリート」のサイトへ飛べます。 カワイクて、楽しいサイトです。 同じく「セサミ・ワークショップ」のトップページの、左側の子供の画像をクリックすると「セサミ・ワークショップ」のコンテンツページへ飛びます。子供達の表情がとても良いです。 その他、サイト・マップ(SITE MAP)を開くと、他のキャラクターのページもありますよ。

セサミ・ワークショップ へ Copyright : http://www.sesameworkshop.org/
:このサイトは、リンクで飛んだ後ページが表示されませんが、ブラウザで「更新」すると表示されます。)

11-8 : 「選挙」です。
明日は投票日。 投票には行きます。
もう毎回行ってますが、行くようになったのは、バブルの崩壊後、政治の問題解決が遅れるなどの事柄が大きな要因となって、銀行や企業の倒産などが始まり、また起きる事件なども、従来の常識では考えられないような事が起き始めた頃でしょうか。 丁度その頃、自分も独立開業という目標を明確に持ち始めていた事もあり、世の中の社会的・経済的な問題が深刻になってはいけないと、政治を考えるようになりました。
でも、日々政治について勉強をしているわけでもなく、学校に通っている頃から「政治・経済」は頭に無い科目だったこともあり、とても正直な表現をすると、よくわかりません
この10年ほど毎晩かかさずニュース番組を3本立て続けに見て、毎月テレ朝の「朝まで生TV」を見て、眼の下にクマを作っても、よくわかりません。
ただ、世の中を、自分のような人間でも正直に平穏な心で生きれるような方向にもってゆく事に、一人の人として参加しなければ!という気持ちだけです。
でも、本当は、政治の行方など、誰にもわからないと思います。
政治家にも、専門家にも、長老にも、高学歴の人にも、私のように勉強が嫌いだった人間にも、誰にもわからないと思います。
ただそれを、どうせ変わらないしととらえるのは、完璧な誤解だと思ってます。
政治は時代のハプニングだと思います。
ハプニングを起こすのは、民衆のマインドだと思います。
ナチスの時代も、日本が太平洋戦争に突入した時代も、そこには民衆のマインドが強く働いていました。
どうせ変わらないしという感じ方は、色々なことが穏便ですんだ時代の、古い感じ方かもしれないですね。
政治は難しいです。専門家が集まっても、一つの事柄にみんな違うことを言います。
ただ、大切なことは、政治家と民衆の立場を明確にする事のような気がします。
何か、政治家=国 は偉くて、民衆を統治している王様のような立場で、民衆は、政治家=国 の言う事やる事におとなしく従う立場なんだ、という捉え方の人が少なくない気がします。(昨晩やっていた筑紫さんの番組に出ていた20代に人達の発言からも) それは逆で、政治家は、民衆に雇われているのです。
だから、極端に言うと、民衆は、世の中を良くするために、政治家を使う立場なのです。
よくわからない政治を、わかる政治にさせて、個人がもっと密接にかかわれる政治にさせたいです。
自分も、暗い未来には生きたくないので、世の行方を、自分が生きたいと思える明るい未来にしたいです。
だから投票に行きます。
”こちらの政党を選ぶことで、必ずこうなる” ということは無いですが、”民衆の一人である自分は、明るい未来を作るためにあなた方を使う一人なんだぞ” という一票を投じるためです。
”POWER TO THE PEOPLE”です。
”IMAGINE”です。
頑張りましょう!                                    this page TOP

10-12:
part 2
青山同潤会アパート跡
昨日、原宿に行った時、青山同潤会アパート跡地がどうなっているのか見てきました。
スキな場所の一つだったので、取り壊しからどうなっているのか気になっていました。
左の写真は、原宿方面から歩いて来て、アパートが始まるところの写真です。既にアパートは無く、工事用のパーテーションが跡地を被っていました。 老朽で配管などの設備もボロボロだったとのことで、仕方がないとは思いますが、出来れば、修繕をして、建物を残して欲しかったと思います。
ちなみに、このアパート前の道、表参道は昔、日本軍の飛行機が飛ぶ滑走路としても使われていたという話を聞いたことがあります。(左写真をクリックで大きく開きます)

10-12: 「私の祖父は第一次世界大戦に反対して上院の議席を失った。そして10年後、彼はまったく同じ演説をして議席を取り戻した。 人々の態度は変わるものだ。」
とは、アメリカ人作家のゴア・ヴィダルの言葉です。(”ジョナサン”のページより。)
それにしても、本当にそうですね。
自分の人生を実現している人の多くは、信念をもって自分の信じることをやりとおしたと聞きますし、昔から、「信じる者は救われる」と言いますが、人の世とは、”浮世”でして、千差万別の「ああ言う・こう言う」の坩堝です。
そんな中で自分が、いかに大事なことを信じきりながら生きられるか、というのは、本当に大変なことです。
でも、本当の人生を生きるためには、一週間に一度でも、本当に大事なことを真剣に再確認することは大切だなと思います。 「自分を信じる」ことの方が、「空を飛ぶ」ことより、ずっと現実的で信じ易いことですよね。

09-30 ここ最近、Webページ作成業が平行して忙しいこともあって、なかなか書き込みが出来ません。
そうこう言っている内に、もう9月も末日になってしまいました。
夜もずいぶんと寒くなりました。日中は暑かったりするので、Tシャツ姿なのですが、夜は冷えるので、もう中綿がキルトされているJacketを着用しています。
基本的に面倒くさがりと言いますか、色気が無いものですから、オシャレには無頓着で、なにしろ、ザッと着て脱げるものが好きです。TシャツにGパンかチノパン、上着もザクっと着れるもの。
でも、適当でも物はイイのがイイですね、イイ物を着古していくのが。イイ物にはお金を払いたいです。
消耗品は出きるだけ安く上げたいけど、イイ物には、プライスタグをあまり見ないで、ザッとお金を払いたいです。
もちろんそれは理想であって、プライスタグとニラメッコしてしまうのが実情ですが、でも、目標としては、値段で物を買わない人になりたいというのがあります。お金は、使ってこそ意味がありますからね。
みんな、そうなれたらイイですね。

09-02 少々なまなましい事ですが、さきほど、久しぶりに「万引き」が発生いたしました。
20代の男の子で、このサイトでも紹介している携帯ストラップを2本、黙って持っていきました。
私は、”監視”することがどうしても嫌なので、いつものように仕事をしつつ、接客が必要な時に話しかけるというスタンスをとっていたのですが、それにつけこんだようです。
まあ、困るのですが、それより、”あんなカワイイ携帯ストラップ”を”盗む”ということが出きる神経が理解できません。
いや、カワイイからこそ、欲しくなるんですが、愛らしいモノは”優しさ”であり、盗むのは”卑しさ”と言いますか、優しさの反対のものなので、それが結びつかない・・・。
それにしても、小中学生ならまだしも、開いた口がふさがらないと言いますか、「青年よ、君はそんなダサい生き方でイイのか!?」

08-24: ”「自分時間」 の達人になる”
最近感じることの一つに、自分の感覚と、自分をとりまく環境が提示している 「時間」 が合わない、という事があります。
歳をとると、時間が経つのが早くなる、と言いますが、それは自分に大きな影響を与える社会的な環境の中で、自分で自分個人の人生を認識しながら過すという瞬間が、激減するからなのでしょう。
ただ、「振り回されてアッと言う間に・・・」と、「充実していてアッと言う間に・・・」というのとは、両極なようですが、でも 「アッと言う間に・・・」 という点では同じく早く時間の経過を感じます。
そして、「苦しくて苦しくて、早く終わってくれないか・・・」 と、「充実していて、ゆったりと時間を味わう」 というのも、時間を長く感じるという点では共通ですが、苦と楽では、両極ですね。
「苦楽は同じもの」という、仏教的な話ですね不思議です。
その議論は置いておいて、私は何しろ、どうやったら 「自分時間」 を生きる人間になれるか、という事を考えてしまいます。それは自分だけの自分時間というより、自分を取り巻く人達と合意した時間の流れが、自分にぴったりの「時間」 という意味です。
それを強く意識し始めたのは、2年ほど前の春から夏にかけて、だったと思います。
出来事というか、感じたことが二つほどありました。
一つは、売上げが思うようにいかず (いつもですが ^^; )、悩んでいる初夏のある日。その日は定休日で、アクセサリーの仕入れに、都内の某所へ行こうとしていた日でした。
住んでいる場所は、けっして陰鬱な感じではないのですが、日はあまり入らないもので、晴れた日でも室内は照明が必要な部屋です。
気分はすぐれなかったので、寝ていたかったのですが、朝9時頃、出かけるために身支度をし、玄関でクツをはき、それでは出かけるか、とドアを開けました。
すると、玄関のドアをパっと開けたその外には、パーっと広がる、ほどよく暖かく、太陽の陽光がさんさんと降り注ぐ、そして爽やかな風が木々を優雅にゆらしている、”初夏の大気”が、「ある風景」を見せていました。
その風景に包まれたその瞬間に私は、「永遠」 という存在を感じました。
その大気の感触に触れる直前、”店の売上げ” という、個人的人生の現実としては大切なことに危惧していた自分があったのですが、その大気と木々の見せた「永遠」 を感じた時、”地球” と、その上の自然、ただ、大地があり、ただ、木はそびえ、ただ、風は吹く、ということ、「ただ、在る」、ということに触れました。
私を含む人間たちが、色々な事柄に一喜一憂しながら 「時間」 の中に囚われているように生きている時でも、自然の営みは、(変化はしつつも)何億年と変わらずに、日は昇って、河は流れて、風は吹いて・・・。
それは、その時、「時間」 というものから開放された瞬間でした。
よく、「人生はゲームだ」 という表現がされますが、私たちは、ただ、在る、という、 「永遠」 という 「今」 の中に抱かれながら、「時間」 という概念にスケールを置いた、とてもリアルに造られている、真剣な”人生ゲーム” をしているのだ、という事をあらためて実感しました。
そのことを、その日出向いた仕入れ先の女の子に話したら、「ヘッヘッヘッー!」、「まーた稲岡さん、あっぶないこと言ってますねー!」 と、危ないヤツあつかいでしたが・・・(+_+) 。
二つ目は、ある夏の晴れた日、その日も仕入れの関係で、都心へ出かける最中のこと。
ウチから駅までは、自転車で10分ほどかかるのですが、時刻表で電車の時間をチェックし、少々余裕を持って部屋を出ました。 別に何の問題もないかに思えたのですが、こぎ始めてちょっとすると、向かい風がだんだん強くなってきました・・・。ギアを下げたり上げたり、前屈姿勢にしたり、いろいろやったものの、向かい風は壁のように立ちふさがり、こいでもこいでもなかなか前に進まない・・・。 時間は正確に進み続け、自分はダラダラ汗をかき、疲労が始まり・・・そしてまだ一日が始まったばかりだというのに一日分くらいを消耗しながらパっと顔を上げると、乗りたかった電車が向こうからやって来る・・・。ここでラスト・スパートをかければ何とか間に合うかもしれない!!っと思ったのですが、朝っぱらから大汗をかき、ヘトヘトに消耗しきっていたその時の私は、徐々に腹が立ってきました。
「僕はちゃんと時刻表をチェックして、当たり前だけど余裕をもって家を出た。それに、休日だけど何も遊びに行くわけじゃない、ちゃんと店のことを考えて仕事をしに行くんだ。そしてこんなに疲れ果てるまで一生懸命に自転車をこいだ。なのに何故だ!?僕は真面目にベストを尽くしたじゃないかー!!」 と。
そして、決心しました。 「ラスト・スパートはかけない」。「もう、そういう人生は終わりにするんだ」。
乗るはずだった電車は、去って行きました。
「チクショー!」とは意地でも思わず、「何かに必死に間に合わせようという人生があるならば、その裏の人生もあるはずだ。そしてその人生は、それはそれで、きちんと機能してるはずだ!」 と思ったのです。
その、今まで常識として教えられてきた世界とは「別次元」のような、次なる人生空間への期待を抱きながら、ゆっくりと自転車を自転車置場に置き、自転車整理のおじさんに「おねがいしますね!」と言い、ゆっくりと駅へ向い、ゆっくりと切符を買い、ゆっくりとホームに上がって行きました。
誰もいませんでした。
缶コーヒーを買い、タバコに火をつけて、その静かなホームを味わいました。 少しすると、2〜3歳くらいの子供を連れた若いお母さんがホームに上がってきました。 子供に何かポソポソっと話しながら。 時間はゆったりと流れていました。
幸い、一本電車がズレたものの、乗り換えはスムーズにいき、その日は一日ゆったりと着実に、仕事ができました。
そんな二つの出来事だったのですが、その二つは何か、自分で自分を変えた諸々の一つとしては、この4〜5年の内でもベスト3に入るものだったように思います。
でも、”「自分時間」 の達人になる” への道はまだ遠いものです。 まだまだ甘い(^_^)。
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08-08: 今考えていることの一つに、”思いやり” があります。
「”思いやり” が大切だ」 ということは、小さな頃から教わることですし、今さら考えるようなことではない、そういう事柄の一つだと思います。
でも先日、電車の中で、「じゃあいったい、自分が表現する思いやりとは、いったいどんな事だろう」 そう思いました。
相手の身になって、相手に何かいったりしたりしてあげること・・・まあそれはそうですが、相手のその時のコンディションや環境によっても変わってきますし、人によっても違いますし。
そうやって考えていると、「じゃあ ”思いやり” っていったいどんなことだ?」 と思いが広がってきました。
もしかしたら、ホントウには、誰にもわからないことなのではないか・・・。 分かっているつもりでも・・・。
つまりそれは、相手によっても、その場面によっても変わってくる、とてもデリケートで、”幸せ” と同じようなものなのですね。
それに、”押しつけ” であっては別物ですし、”自己満足をするための道具” であっては情けない話ですし。
ということは、「これで良し」 ということが全く無いわけですので、私たちは ”いつも” ”思いやり” と一緒に居る必要があるわけです。 自分自信が、”思いやり” という存在になってこそ、それを意識せずに、自然と ”思いやり” のあることを言ったりしたりできるんですね、 きっと。

人の中に生きて、人と接することを日常にしていると、そういう事を考える、自分を振り返ることが多いです。
一瞬〜を、自然なフィーリングで貴重な時として生きている存在になりたいものです。

08-05: やっと、「梅雨が明けたようだ」 という、まだ曖昧な発表があったものの、今日は東京は曇りから雷雨になりました。
夕立は夏の風物詩ですが、ずっと天気が悪かったので、なんだかただの夕立には感じられません。それに、早々と台風が来てますね。
何年前かに教育TVか何かで見たのですが、「地球温暖化」によって、南で起きていた自然現象が北上しているとのこと。だから、台風の発生する緯度も、昔より上がっていて、それで台風がまだ強力なウチに、日本に接近(上陸)し始めているようです。 ウチも故郷が九州なので、他人事ではないです。 そのウチ九州でもスコールが起きたりして。

話変わって。
ウチでは付き合い的に、「置き薬」を置いています。
その営業の方が今日、クスリのチェックに来たんですが、サラリーマンの方もお疲れだなぁ、と感じました。
実は営業の方が変わったので、「前の人は辞めたんですか?」 と聞くと、「移動です。いや〜、昔は社員が辞めて営業が変わることが多かったんですが、最近はね、辞められないですからね〜」 と、苦笑いというか、ニヤニヤっと、なんとも言えない笑い・・・。 サインをと言うので、「シャチハタでイイですか?」 と言うと、「ええ、何でも。私が偽造できなければ・・・最近、ちゃんと回ってるかどうか(営業に)チェックが厳しくて・・・」 この方は、いかにも誠実そうな人なんですが、「会社」は全体的に、いろんな意味で、以前とは比べられないくらいに厳しいようです。
もちろん、私のような個人経営は、毎月実際に綱渡りをしているのと同じ状況で、「厳しい現実」を生きているのですが、全く違った次元で、会社員の皆様はホントウに、お疲れ様ですm(_ _)m。
お客様にも、友人・知人にも、会社員は多くいらっしゃいます。 ホントウに、お疲れ様ですm(_ _)m。
星野さんも、王さんも、イチローも松井も、それから水泳の皆も(名前忘れましたスミマセン)、みんな頑張ってるし、とりあえず、頑張りましょう!!                             this page TOP

07-15:: 2ヶ月ぶりの書き込みです。
本物の”ひとり言”は一日中言っているのですが、仕事が忙しく、なかなかその頭の中のひとり言を、ここに書けない状況が続いています・・・。
それにしても、”忙しい”つまり、”生きることで忙しい”と、”愛”が欠乏してきます。
それとも、”愛”が欠乏しているから、”生きる事に忙しい”という事につながって行ってしまうのか・・・。
最近、”愛”が足りないな、それは ”自分発の愛” という意味ですが、そう感じました。
”生きる” という事は、本当に難しいです。
動物と違って人間には自由意思というものがあるから、その意思の発信地を、常に ”愛” にしながら生きるというのが難しいと思うのです。
そして、”愛” というのは、これまた広くて深いもので、なにも感情的にベタベタしたり、人に対して常に何かしてあげなくては・・・というものでもない・・・。自分に無理に義務感を持たせるものでもない・・・。 ”偽善” になってしまっては、元も子もない・・・。
ただ単に、”平和” であれば良いかというと、そうでもない・・・。 あえて悪者になって自分と戦わなくてはいけないような事もある・・・。 ひとつひとつの判断の発信地が、正直でなければ・・・。 そしてそれは、”でなければならない” という発想では、また本末転倒・・・。
でも、やっぱり、”誠実” であった方が良い・・・。 そして、そうも言っていられない・・・。
こうやって考えると、愛ある生き方というのは本当に難しく、結局、出来るだけ自然体でいよう、という結論です。

車に乗っていると、自分と直面することがよくあります。
車の多い道を走ることは、今の自分の状態を確認できる場です。
走っている車の数だけ、意思があって、走っているヶ所で、まあすんなり交通ルールが守られていて、その場の状況に応じた流れであれば何の問題もなく目的地まで辿りつくのですが、1時間も走っていると、色々な走り方の車に遭遇します。そんな時に自分がどんな反応をするかによって、自分の居る場所といいますか、それがわかります。
私は毎日、車の場合は片道で1.5時間、バイクで1時間を通勤していますが、これはホントに訓練になります。
もちろんその内容によりますが、回りに起きる状況に、不必要に反応しない、大らかな生き方で生きて行きたいです。

05-14: いま、両親が九州から出てきているのですが、その”出て来方”が、” ホンダの赤いワゴン車で延々と旅をしてきた ”という出て来方でした。以前から、「そのウチ、車で日本一周をするのだ」と言っていたのですが、どうやら「” 日本一周 ”は大騒ぎだ」という結論に達したようです。
それで、親父は以前から、「稲岡」という姓について研究しており(稲岡と申します)、つられて私も時々、ネットで全国の「稲岡さん」を拝見してまわっています。(もし「稲岡さん」ご覧になっていたら、こんにちは!)
「稲岡」という姓は珍しく、稲葉さん、稲垣さん、稲村さんなどは比較的いらっしゃるのですが、稲岡さんは、普段の生活をしているだけですと、なかなかお目にかかれません。
親父の話によると、私達の祖先の「稲岡さん」は、その昔、下級武士だったそうなのですが、「武士ってやつはどうも堅苦しくていけない。武士の肩書きなど売っぱらって、町人になろう!」と思い立ち、肩書きを売って、庶民になりきって生きたそうです。肩書きは売れたんですね。
そう言えば自分も「堅苦しい」ことが大嫌いで、下町的な雰囲気が好きだったり・・・。そのご先祖のDNAは脈々と受け継がれているんですね。
それと、私がお知り合いになる方や、お客さんには、どこかお侍やお姫さまのような気質の方が多い。
もしかしたらその昔、私のご先祖がお世話になったお侍や姫様の御子孫かもしれません。
いつぞやは、大変お世話になりました。これからも、宜しくお願い申し上げます!

05-12: なんと、こないだ ” 忙しくて、うんぬん・・・ ” と、更新が進まないことをお詫びしてから、更に1ヶ月経ってしまっている事に気づきました。
月日が流れるのが何と早いことでしょうか。
” 光陰矢のごとし ”。
でもそれだけ、一人でも多くの方が、ここでご紹介しているモノ達と出会う事が出来ているわけで、それはそういう仕事をしている私としても、嬉しいかぎりです。
これからも時間をみつけて、例えば作家さんのご紹介、例えば実店舗のある” 江古田 ”という変わった町の紹介、例えばリンクの充実、そして例えば、こんな私の日々感じることなどを、書き綴ったサイトにしてゆきますので、よろしくお願いします。                                            this page TOP

04-14: この一月間、多方面で忙しく、なかなかWEB関係の仕事が出来ませんでしたー。
書きたいことは鬼のようにありますが、じっくりと出来る時間がないのです。
国際情勢から、最近では都知事立候補された「ドクター中松」のことまでいろいろと書きたいのですが・・・。
それから、「ご紹介コーナー」にもご参加いただける方々がいらっしゃるのですが。
諸々の各更新内容、少し滞りそうです。

03-14: 今日は ”ホワイト・デー” ですね。かけ込みのお買い上げ、どうもありがとうございます!!
お蔭様で、電話代が払えそうです m(_ _)m !。
でもこういうイベント・デイは、私のような一人者の方の場合、いろいろな意味で「どうしよう・・・」なんて、ちょっと考え込んでしまうこともあるかもしれませんね。
そこで、私も同感な一言をお届けしたいと思います。
     「人生はマラソンなんだから、百メートルで一等をもらったってしょうがない。」 - 石坂泰 -
どこかで見つけてきた言葉なんですが、いろいろな意味で、「そうそう!」と安心してしまったり。
ただ、安心しきってしまうと、まずいかな・・・。

03-04: やっと3月になり、春を感じさせる暖かい日が増えてきましたねー、春一番も吹いたし!
でも今日は寒い・・・、それに加えて、ついに花粉症の症状が出てしまいました・・・。
4年ほど前から花粉症になってしまったのですが、たしか昨年は、症状が出なかったので、運良く抵抗力がついたのかと思っていました、が、今朝はズルズルでしたー。残念!

02-21: それにしても、世の中、どうしてこう争いや戦争が多いのでしょうか・・・。
”人類社会に戦争はつきものだ”。ということが、当然のように言われますが、どうしてなんでしょうか。
まあ、納得できる部分はありますが、本心では理解できない気がします。
日本人だからでしょうか。
日本は戦後、戦うことを憲法で放棄した国。日本人でいるより、外国から見た”それ”は、世界的にみて、かなり画期的な事のようです。 人事のように言いますが、多くの日本人にとって、”それ”は、やはり逆にリアリティーがないのではないでしょうか。
最近は、「日本の安全神話も崩れてきた」と言われていて、確かにうなずける部分はありますが、でも、海外と比較すると、やはり日本という国、国民性は、戦うということを望まない傾向が強いように感じます。
米ソの冷戦の仕組みが無くなり、世界的に”グローバル化”というタイトルの中で確かに大きく変化して、世界の中での日本という存在感が、以前より明確になりつつある中で、時々思うことなんですが、”日本”という国、国民は、もしかしたら、世界平和のために活躍すべき国、国家なのではないかなあ、ということです。
外国に、少しでも滞在したことのある人で、日本のすばらしさをしみじみと実感した経験を持つ人は、少なくないのではないでしょうか。 もちろん悪い部分はありますし、芸術的な文化レベルや、精神文化が貧困だ、という部分はありますが、それはどこの国、国民性をみてもどこかしら悪い・貧困だと思われる部分はあるわけで、それは置いておいて、日本、日本人は、実は素晴らしいのです。 いえ、これは妙なナショナリズムでの見方ではありません。 排他や保守的な意味での”素晴らしい”ではなく、建設的な意味で、あくまでも真摯に、”素晴らしい”のです。 ”プロジェクトX”を見ても、それはよくわかるのですが、もっと全般的に。
政府は、”国益”というものを第一に考慮し、国民から見るとイライラするような政策をとらざるを得ない立場にあるようですが、米・英との利害関係など普段考える必要の無い庶民レベルにおいては、戦争などせず、平和な世界を築こうという意思が大多数ですね。 どうにかそれを、もっと容易く、つまり普段のそれぞれの生活をする中で、世界に反映させることは出来ないものかと思ってしまいます。
”平和への貢献”という意思が多くの人にあったとしても、それを普段の生活と平行させて日常的に具体的に活かすことが難しい。 世界が平和で希望を持てなければ日本の経済も安定しない、世界共存時代。 どうにか、それぞれ普段の生活を維持・向上させようとする日常の中で、もっと具体的に世界の平和に貢献できる方法はないものか、思案中です。
(そう言えば、ノーベル賞の田中さんが、「受賞直後にオファーのあった50万ドルの年俸契約をけった」というニュースを見ました。これはある意味、「・・・金じゃないんだよなぁ」という、今まで世界のスタンダード視されてきた弱肉強食的、マネー崇拝主義がけっして”成功”や”幸福”なのではない、ということを暗に、世界的に表明した、無意識的な一つの平和活動であったように感じました。)
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02-12: 時々、「雑貨屋なんて気楽でイイね」と言われることがあります。
確かに、いわゆる「カワイイもの」に囲まれてそれを売っているので、それは気楽に見えるかもしれませんが、それなりに悩みがあります。世の中全般に太平な時代であれば、気楽にカワイイものを売って、ニコニコしていればそれでイイのかもしれませんが、こんな時代です、書くときりがないので書きませんが、世間のシビアな情勢は確実に影響しています。
雑貨屋などというのは、ただ物を売ればイイというものではなく、プラスアルファーな幸せ感を提供しなくてはいけない職業なので、本来シビアな情勢に影響など受けていてはいけないのですが、なかなかそうもいきません。
それでも、小さな幸せを見つけに来店していただくたびに、「ああ、少しは世の役に立っているのか」と、逆に励まされることばかりです。
こういう店をやっていると、何故か「一般人とは違う人種」のように思われたりもします。何か、「センス」や「こだわり」に妙なプライドを持っていて、普段そういうセンスにタッチしていない人を馬鹿にしているような、そんな風に思われたり、プライベートはそうとうオシャレな生活をしているんでしょう!など。
すくなくとも、ウチはグチャグチャです。店が終わって1時間ほどかけて自宅へ帰ると何もする気にならないのも同じで、無造作に物が積まれた部屋でTVをつけて、食事をしながら「今日一日の出来事」をチェックします。イイことも沢山あっただろうに、何故かニュース番組を見ていると、「この世は最悪だから早くあの世へ行こう!」というキャンペーンでもしているかのように見えますが。
でも、そんな世の中だから、ウチのような店に来て、少しでも幸せの種を持っていってもらえればと思います。
なにしろ、雑貨屋も意外と大変だったり、するんです。

02-07: ”プロフィール欄”に、「好きなこと」として、”ボーっとすること”と書いているのですが、まえまえから自分で、「好きなことが、ボーっとすることで、果たしてイイのだろうか???」と疑問を感じていました。
何か、もっと気の効いたこと、建設的なことの方がイイのではないか??? 確かに、ボーっとすることは好きではあるが、好きなだけに、”宣言”までしてしまうことによって、更に自分に対しても、ボーっとすることを奨励しているような、潜在意識に刷りこんでいるような、少し不安さえ覚えてきました。もっと自分に対してもハッパをかけるような内容にした方がイイような。
それで、某検索エンジンで、”ボーっとすること”と検索してみました。(これもバカらしい・・・)
すると・・・なんと多くの人達が、特に”プロフィール内容”としてその”ボーっとすること”をあげているかがわかりました。
マスに流されるわけではないですが、「じゃ、いいのかな・・・」と思い直し、「好きなこと」をそのままにしておくことにしました。
イイのかな・・・。                                       this page TOP

02-04: 02-02で「他の方法」などと書いたのですが、2/3のNTV某番組で何と、その「他の方法」を紹介していました。
ご覧になった方もあるかと思いますが、「リフター」というもので、電気をマイナスとプラスに分離することで浮力を発生させ
るという方法で、燃料を燃やさずに空中に浮遊するというもの。(右写真。参照はこちら。)
浮遊する様子はUFOそのもの。調べると、実は米国議会がこのリフターの科学的研究に資金を拠出することになったとのこと。(発明者はティム・ベンチュラという人。)
更に調べていくと、なんと「商工会議所」のホームページでも同じ内容を紹介していました。(「商工会議所HP(こちら)」の「ITリテラシー」の「マルチメディア・インターネット事典の「あいうえお順」の「り」の項目です。)
また「NASA」もいろいろとやってまして、「ワープ」や「タイムトンネル」に似た発想の研究にそれぞれ真面目に取り組んでい様子です。おどろきました・・・。

02-02: 昨晩TVでシャトルの事故を知りました。
宇宙計画のことにリアリティーはありませんが、そもそも、大爆発を人工的に起こして宇宙に行くというやり方が、もしかしたら限界なのでは??? 勝手なことを言っていますが、21世紀、そろそろ「燃料を燃やす」という原始的な方法でモノを動かすことを止めて、「他の方法」を真面目に考える時期なのでは。
なにしろ、「爆発させる」という不自然な行為は良くないと思います。だから戦争にも反対です

01-30: 寒い日が続いています。
オートバイで片道30kmを通勤している身にとって、もうそろそろ暖かくなって欲しいと思うのですが、宇宙のリズムには逆らえません。
寒いと言えば、ヒマラヤ山脈の、森林限界を超え、そのまた更に上に登ると、地球上でそこにしか生息していない”ノビレダイオウ”(Rheum nobile)という植物があるそうです。それが左の写真です。高さは1mもあって、花のように見える白い塔のような部分は葉っぱで、葉っぱが螺旋状に茎を被い、中に花と実を包んで、ヒマラヤの4000mの寒さから花と実を守っているのだそうです。一見、荒涼とした4000mの高山の山肌に、これが所々に生えている風景はまるで、どこか遠い惑星のものか、もしかしたら神々の住む地のもののように見えました。
こんなところで神さまは、何を想っているのでしょうか。          this page TOP

01-24: 昨日は用事があり、小学校2年の時に住んでいた、横浜の六角橋商店街という場所へ行って来ました。
想い出の多い所なのですが、商店街がその後どうなっているか心配でブラブラしていると、”ペコちゃん”その他、日本のレトロキャラクターをゴチャゴチャと集めた「ひげのおじさん」というコレクターズSHOPをみつけてしまいました。店主のおじさんは、店名のとおり、ひげをはやしたおじさん。写真ではちょっとコワイ感じで写ってしまったのですが、大盛りの笑顔をしてくれるイイ人です。横浜近辺の方、レトロキャラの奴隷と化している方は一度行ってみてください。HPはまだ作っていないとのコトなので、かわりにこちらで住所電話番号をお知らせ!お勧めです。             this page TOP

01-22: 以前から時々顔を見せるオバさんが来て、覚えていたので話してみました。
歳を聞くと、68とのこと。「でも、メールやってるんだよ」というので、驚いてしまいました。
いえ、驚いたというより、共感した、という感じです。ボケ防止とは言ってますが、メールの利用価値をちゃんと理解して楽しんでらっしゃる。素敵なことです。
私は時々不思議に思うことがあるんですが、それは、「何故、いつの時代も、おばあちゃんはおばあちゃん的スタイルに、おじいちゃんはおじいちゃん的スタイルに、オジさんはオジさん的スタイルになってしまうのか?」ということ。
この「○○的スタイル」とは、カッコそのもののことなんですが。
不思議なんですよ。
だって、例えばあのJOHN LENNONは40ちょうどの歳に撃たれました。それが1980年ちょうどだから、もし生きていれば、62歳です。今のおじいちゃん世代です。でも、たとえばJOHNが青年・中年の時代は、ヒッピーまっさかりの時代で、今リバイバルしている、ベルボトム(ラッパ)ジーンズや、サイケ柄のシャツ、ピースなアクセサリーじゃらじゃら、ロンゲは当たり前、LSDもまだ規制前で、マリファナがんがんにフリーセックス、もちろん今のロックのバクリの原点となるバンドがアメリカでもUKでも現役でバリバリやっていた・・・と、そういう時代だったわけです。
そんな時代を生きていた人達が、何故、昔ながらの”おじいちゃん””おばあちゃん”になってしまうんだろう???
ここ江古田をゆく人達も、いわゆるそういう分かりやすい人がほとんどです。
それから先日TVで中学で社会を教えてる先生の話をやっていたのですが、年齢が45か6.昔はアメリカを旅したヒッピーとのこと。でも、現状は、いわゆる ”カタイおじさん教師”な感じで、若い生徒を前にして、あまり自信なさげな感じで教鞭をとっている・・・。
何故だろう???
もとヒッピーなら、何故もっと、革新的な雰囲気をかもし出しつつ、生徒たちに向かう、ユニークな先生にならないんだろう。そんな疑問をもちます。(そういう方、いらっしゃると思いますが、でもおしなべて・・・)
それが今の日本の文化水準なのかもしれません。
やはり、おじさんはおじさんらしく、おばあちゃんはおばあちゃんらしい感じにしなければ、社会が受け入れてくれない。だから社会に受け入れられるために、せっかく若いころ、革新的なアイディアに引かれてヒッピーをやったのに、いつのまにか、ユニークさを失ってしまうのでしょうか。
ファッション的な自由さ、技術やビジネス的な革新性も大切ですが、日本はもっと、人間の内面的ユニークさを活かせる(受け入れられる)自由さを持つ国になって欲しいなと、思ったりします。
   PS でも”おばさん年代”は別ですね。おばさんぽくない人、多いです。    this page TOP

01-21: このページ第一日目。
ほとんど今、思いついたので、何を書こうかと迷っています。
今、店として考えていることは、”物を紹介して買っていただく”、ということ以外で、いったいどんなサービスが出来るのかな、ということです。
”物”には、その物が持つ、特有の雰囲気やパワーがあります。だから物を紹介するということは(特に消耗品ではないウチで扱うような物の場合)、ただ単に”物を売る”ということではなく、雰囲気やパワーを提供して、それを手にいれた人の精神的な世界観を膨らませる手伝いをする、ということです。
特に反応のダイレクトな実店舗では、そういうことを良く実感します。それを仕入れた私の感覚とは全く違う反応、それほど気にもとめていなかった物に、物凄い魅力を感じて感動してもらったり。物余りの時代と言われていますが、そうやって感動してもらえると、店をやっていることがちゃんと社会貢献になっているんだと、再確認できます。
でも、またそのプラスアルファーで、文化的なソフトの部分をサービスとして提供したい、という、人間的な欲のようなものが出てきます。もっとこの店の役割を実感したい、というような感じでしょうか。それが何なのか、ということを、今、考え中です。                                              this page TOP

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