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Since Jan. 21st 2003
おかげさまで、ご来店が増えてきました。
ここでは、私の勝手なひとり言を書かせていただこうかと思います。          
何しろ一人でやっていますので、書きこみは”時々”になるかと思いますが・・・。
                               jan.21st 2003 

last updated : Dec. 31th 2006


12-31: 本年中は本当にお世話になりました。
お蔭様で、正月を迎えることができます。
皆様はいかがでしょうか?それぞれの思いで新しい年を迎えられることと思いますが、来年も、力強く生きましょう!
来年も、何卒宜しくお願い申し上げます。

12-24: 今年も残すところ1週間となりました。
今年もいろいろありましたね。 あんなこと、こんなこと・・・。あらためて振り返ってみると、アッっと言う間の1年だと思っていたら、実は色んなことがあったのだと驚いてしまいます。色んなことを考えて、実は色んなことが変化して、アッと言う間に過ぎ去った1年だと思っていたら、意外と進歩していたりすることに気付かされます。
世界はあなたをtreatしてくれましたか? あなたは誰をtreatしましたか?愛は深まりましたか?それとも愛になりましたか?
宇宙からの贈り物は届いたでしょうか?あなたはどんな贈り物をしましたか?
それは誠実さ?ただ生きているという事実?愉快さ?あることに悩んでいるということ?友情?虚無感?高揚感?
全ての “生きること” は、きっと “あの正直な星” に届いています。

06-03: 先日も書いたのですが、私は植物が好きです。詳しいわけでもないし、ガーデニングをやっているわけでもないのですが、子供の頃から特に熱帯雨林のような場所が好きで、吉祥寺にある大きな温室の中でジャングルを再現しているところに連れられて行った時も、無性にワクワクしたのをよく覚えています。
春になったくらいから、歩道を歩いていると、道端というか、歩道に敷いてあるブロックの隙間から、雑草なのだろうけど、とても繊細でオシャレな(?)草が生えているのが目につくようになり、気になって気になって、あれを寄せ植えにしたら、かわいいだろうな、と思うようになりました。それで先月のある日、フォークとコンビニ袋を持って、近くの公園に植物採取に行きました。名前は知らないけど、5〜6種類くらいの雑草を取って来て、4個の鉢に寄せ植えにしてみました。
ちょっと大きな画像へそれが意外と難しく、持って来る途中でしおれてしまったり、根がからまってしまったり、思うようにしゃんと植わってくれません。とりあえず、しおれてしまっているものも植えて、水をやり、ベランダに出しておきました。しおれたまま枯れてしまったものもありましたが、いくつかの草はなんとか復活して、普通に生えている感じになりました。想像していたようなオシャレな寄せ植えにはならなかったけど、まあ仕方ないか、と思っていたある日(今日)、昨日までなかったのに、なんと、イチゴの実がなっていました!かわいい!すごい!Whatta beautiful ! 言葉では言い表せない感覚です。この小さな幸せ、止められません。

05-29: 昨年の暮れから、とても忙しい日々が続き、書かなくては書かなくては・・・と思いつつ、これが今年初の独り言で、なんと半年も経ってしまいました・・・。
いえ、書きたいこと (と言いますか、湧いてくる思い) はあるのですが、最近、真面目に考えさせられることが多く、それをこういった場所で書く、ということになると、相当の時間がかかるわけです。いい加減なことは言いたくない、どうせ言うならば、本当に言いたいことを、ちゃんと書きたい、ということになるわけで、考え始めると・・・。
ちょっと大きな画像へで、なかなかそういうことは大変なので、自宅の“ポトス”の紹介です。
もともと植物は好きで、前々から自宅をジャングルにしたい計画があるのですが、これもなかなか進みません。先月でしたか、ようやくハンギングタイプの鉢に入っているポトスを、近くのホームセンターで買ってきて(380円くらいで安かった)、窓のカーテンレールのところから吊り下げています。
昔から、岩にへばりついている苔などを見ても、真面目に「かわいい・・・」と思うのですが、このポトスもなかなか知性を感じるというか、品のある方です。そして、このポトスで初めて知ったのですが、植物は根から吸い上げた水分を、葉から雫として出すんですね。買った翌朝、イイなあ、と思いながら見ると、葉の先から、一滴の雫が・・・。ああ、生きている・・・。愛おしさのような、生命の神秘に感動したような、なんとも言えない瞬間でした。今では買ってきた日よりずいぶんと葉も多く茂り、このポトスを見るのが、とても大切な時間になっています。

2006

12-31: ありきたりではありますが、本当に1年は早い・・・、そう感じます。
まあ、早いと言っても、ふりかえると色々なことがあり、それなりに進歩もあり、それなりに充実した1年ではありましたが、何しろ早い・・・。よく感じるのが、1ヶ月が異様に早いということです。1日も早いのですが、その早い1日が、30回で1ヶ月なのだから、そりゃ1ヶ月は早いわけです。そしてその早い1ヶ月が12回で1年なのだから、そりゃ1年も早いわけです。根源は1日の早さにあるわけです。
来年は、1日をもっとジックリ、有意義に感じ、使いながら、時間の単位に振りまわされない、時の質を深めた生き方をしたいものです。

10-26: “占い” がまたブームですが、私はこの占いというものは人によっては、逆に不幸を生むとても危険なものだと思います。
人の性質を特定したり、運命のバイオリズムを特定したり、何しろ “特定”してしまう。それも、いくつかの枠だけに人を囲ってコントロールしてしまう・・・。
人間は、意志の強い人であっても、見たり聞いたりしたことに潜在的な部分で影響を受けてしまいます。それも特に “悪い” という事は頭から離れず、どうしても気になってしまう。だから、“今年は悪い” とか、“この人とは相性が悪い” とか、“○○には縁が無い” とか、そういう事を読んだり聞いたりしてしまうと、ふとした状況をそれに結びつけてしまう性質があります。そうすると、ちょっとしたことに、「〜だからこうなんだ・・・」と、悪い要素を深く考えてしまう。自分では気付かない内に、マインドコントロールを受けてしまうんですね。
人の傾向に関しても、「あなたは○○星人だから、○○な性格です」と書いてあったりして、「ああ、なるほど・・・」と思ってしまいます。でも、人の中には色んな性質や欲求が混在していて、例えば “あなたは破天荒な性質です” と書いてあっても、“そういうところあるな・・・” と感じたり、“あなたはとても保守的な性質です” と書いてあっても、“そうかもしれないな” と思ってしまうものです。
もしそういった “占い” が本当に正確なものであるならば、それをバイブルのようにして生きることは賢明だと思いますが、果たして “正確な占い” というものは存在するのでしょうか???

10-03: 出始めの4〜5年前からとても興味があったものの、一度も経験したことが無かった「マイナスイオン発生装置」。昨日それが付いた空気清浄器が導入され、念願の初体験となりました。
まだ導入していない方がいらしたら、これはお勧めです。それまで何か重く、ホコリっぽかった室内が、作動させて10〜20分くらいで、ホントウに “軽く” “爽やか” になったのです。就寝中もタイマーをかけて使用したのですが、朝目覚めると、いつも感じていた体のダルさが無く、何か血液がサラサラになっているような、いわゆる爽快感。
右の写真が現物ですが、日立の製品で、6000円〜9000円くらいで売っているので、節約生活の人にもなんとか手が出せますね。

09-12: 選挙、何のどんでん返しも無く、まったく予想通りの結果でした。
何割かの「自民党でなければ困る人達」、何割かの「インテリ層で、小泉改革のディテールに客観的にも賛成な人達」、何割かの「詳しい内容はわからないが、何しろ改革断行が必要だと思っている人達」、そして何割かの「小泉さんの生き様に惚れた!人達」・・・。この後半のふたつは今回けっこう多かったのではないでしょうか。
実は私、この6月に引越しをしまして、まだ引っ越してきた地の選挙権が無いんです。結局6月まで住民票のあった場所へ行っての投票が出来なかったもので、今回は棄権となりました。 が、もし行けていたとしたら、民主党以外の野党に入れようかと考えておりました。
世論調査でも自民党圧勝はわかっていたし、「改革」自体は勿論必要だと思います。しかし、民主やその他野党が主張するところの、不完全さやその他政策に関する懸念は実際にあり、そんなことどうでもイイから何しろ今までの自民党のやり方をぶっ壊す改革に賛成すればイイ!という気持ちはあるものの、これだけ大勢が「小泉さんカッコイイ!」状態になっていると、へそ曲がりなのでしょうか、ちょっと待てよ、政策のディテールはわからず(まあ、みんなそうだけど)、と言うことは、両手をあげて小泉さんに賛成しているわけではない・・・でも、今の日本の状況(問題山積)を作ってきた古い自民党のやり方を大きく変えると言って、実際に壊しかけている小泉さんにはエールを送りたい、これは大勢も同意見。 言ってみれば、ノリで考えている。 ノリで考える・・・。 確かにノリは大切だけど、力不足ながら野党が主張している、今の悪い状況(詳しくは省略)を作り上げたのはその小泉改革の影響、改革が必要なのは当たり前で、我々(野党)はその中身を懸念している・・・。 確かに、右だけでは物事は良い方に進まない、「そんなことどうでもイイから」と言われてしまいそうな左の懸念や主張があって、言ってみればその事が右を支え、はじめて物事は良い方に進む・・・。 今回はもっともな状況もあって右が強い、強過ぎる・・・私の中に、そんな裏ノリがありまして、「野党の存在」を考えるようになりました。
「野党」・・・。民主党はかなり都会的でスマートで、政治に関しても近代的なセンスを持っている、都市型の政党ですが、その他の野党には、どこか昔の共産主義を思い起こさせる、アンダーグラウンドな感触があります。それに野暮ったい。もっと言うなら、弱者の悪あがき的な印象があります。しかし、印象はそうであっても、主張している点には多くの共感を得る内容があります。 今までの日本は、自民党が政権を取っているのが当たり前で、「自民党の国」という漠然としたイメージがありました。 そこに大不況、小泉さん、小泉政権(自民党を変えようとする野党にも近いタイプ)、そして民主党、という流れが出てきました。 で、今回の大選挙で、「自民党をぶっ壊す」という大キャッチフレーズのもとに自民党が圧勝したわけですが、一番大事な「これから先」はどうか?と考えると、私には、新しいタイプの野党の存在が、とても大切だと思えます・・・。新しいタイプと言っても、社民や共産が生まれ変わっても良いわけです・・・。
社会の構成としてもっともバランスが取れている状態は、「社会主義と資本主義の一体化」だと言います。昨今言われているセイフティーネット(でしたっけ)の重要性を考えても、社会のベースにまず万民の安定があり、その上に自由競争がある、という構図のバランスがいかに大切か、という事が見えてきます。
社民とか共産とか、ネーミングからして古いですよね、もっと先進的な、何かスマートで「エコロジカル」な未来を想像できるような名前、無いでしょうか・・・。今回のノリの選挙を見てもわかる通り、人を惹きつける「印象」も大事だと思います。せっかく「大切なアイディア」を持ってらっしゃるんだから・・・。

09-04: しかし、「より良い社会を作る」ということは自然な発想なわけですが、実際に行うとなると、「政治世界と民衆世界とのギャップ」の大きさをつくづく実感させられます。
今の人間には無理なのかもしれませんが、それでも、一応民主主義の名のもとに、投票による政治への間接的な参加が可能である以上、文句だけを言うのではなく、この限られた条件の中で、自分のレベルなりの判断をして、一票を投じることが、この今の段階に生きている一人の日本人としての責任のある生き方なのでしょう・・・。

それにしても、政治家や評論家たちは、みんな好きなことを言い、みんな自分(達)のアイディアが一番正しいと言い、まるで、悪意無き(としましょう)詐欺犯や新興宗教の教祖に近いものを感じることがあります。
だいたい、事実上日本が破産している現状を作ったのも、いまだに壊れたストップウォッチのように借金を加算させ続けているのも、当の政治家であって、正直な話、「それだけ日本を救いたいと(真剣に)思っているのなら、腹切りはしなくてイイから、君らの財産を全て日本の借金返済にまわしてからモノを言え!」と思ってしまいます。  税金を増やす前に、政治家の財産や、使われていない無駄なだけの施設を借金に充当し、更に大幅な減給をして、メシを食うなら、週に1回は商店街の定食屋で食いなさい、そしてもっと当人達が庶民の住む場所まで降りて来てから、「一緒に、日本という国を再建しましょう。」と言えば、闘志も湧いてくると思います。

それから、「党」という枠組も、もう止めた方が良い。 あの、「党」(派閥も)という枠組のせいで、政治家の意志と実務がかなり歪んで(ねじれて)しまっています。 党を廃止して、どのアイディアを支持するか、という分け方。 今回の郵政問題では、自民党内の派閥がこの部分にオーバーラップしましたが、「党」があるから、今回の選挙も更にわけがわからない事に陥ってしまっている。 郵政民営化というアイディアを、純粋に論議して、出来るだけ不完全な部分を少なくしてゆく、という協力体制が無いから、せっかくの良いアイディアが、逆効果を産む爆弾になってしまうかもしれない。
「戦う」んではなく、みんな協力すればイイじゃないか・・・。 大人なんだから・・・。

何しろ、(特に)今回の選挙も、政治家達は真剣に、勝手なことを言い、郵政民営化を叫ぶ小泉さんの話を聞くと、なるほど、民主党の発言を聞いて、なるほど、でも共産党や社民党の主張を聞いても、なるほど、田中康夫の言うことを聞いても、なるほど、更にコメンテーターの話を聞いても、なるほど・・・・。 あ〜、みんな正しい!
わけがわかりません!
そうすると最終的には、美空ひばりさんの、「あ〜あ〜河の流れのように〜」と・・・。
最終的には、「どっちに転んでも、今までの体制は確実に壊れるんだから、日本にとっては良いと思いますよ」と言う、お名前は忘れましたが、WBSに出演していた方のコメントに近い感触を持ってはいます。


04-26: 3月、4月ととても忙しく、書き込みが出来ませんでした。特に新年度スタートということもあり、ホームページ制作の関係でのご依頼が続いています。
ご依頼を受けてホームページを制作するというのは、言ってみればジャーナリズムでありコンサルの要素が強いもので、とてもやり甲斐を感じる仕事です。これからインターネットを利用して宣伝(営業活動)をしようとしている企業(個人事業)は、どのようなポリシーに基づいて、どのようなサービスを行っているのか。またその歴史やポテンシャルはどうなのか。隠された強みは何か・・・。そういった事柄を取材させて頂き、それに基づいた構成やイメージを非常に限られたスペース内に出来るだけ分かりやすく構築してゆきます。しかも予算が限られていますので更に集約しなくてはなりませんが、その会社を全く知らない人が見て、内容をよく理解でき、良い印象をもってもらい、この会社でそのサービスを受けたいと思ってもらえる様なページに作り上げなくてはなりません。
また文章で構築されたその内容はもとより、ページをパっと開いた瞬間に、ホームページから感じる雰囲気があるわけですが、その “雰囲気” がその企業の持ち味であったりする特質を表現する必要があり、“このイメージ作り” がとても重要な要素なのです。こちらにデザインをまかせて頂ける場合もあれば、オーナーさんの強い要望がある場合もあり、その場合はまた、“本当はこういうデザインの方がアピールしやすいのだけど・・・”という部分もあり、ご要望とこちらからの提案の刷り合わせが必要だったりと、なかなか難しく、悩むことも少なくないのですが、他人様のイメージ作りをまかせて頂けるという事は、社会に貢献している満足感があります。正にそれは “ミッション” だと感じます。

04-26
Part-2:
4月10日のことですから、少し古くなりますが、桜が満開だった日に近くの公園に行ってみました。
そこは季節ごとに軽いお祭りをやる場所らしいのですが、桜満開のこの日も出店が出ていて、軽い庶民的なお祭り状態でした。のんびりと出歩く時間がもてないので、東京のお祭り事情は良く知りませんが、大きなお祭りは場所によって行われているのでしょうが、こんな庶民的なお祭りが今の時代の東京で行われているとは知らなかったもので、とても感動しました。
それは本当に昔ながらの風情であり、今注目されている “地域社会” を肌で感じるものでした。ローカルで、とても小規模(出店も10件程度)なものですが、皮膚感覚と言いますか、とても人の温もりを感じました。巷では現代の子供達の危機が論じられておりますが、こういった皮膚感覚のアナログなものを、自治体がお金をかけてでも残してゆくことが、人の情緒を育み、人間として健全な感情を作りあげるとても有効な手段になると思います。
今日、教育の問題が真剣に論議されておりますが、学校での実際的な教育とは別の、こういった部分における心の教育というものがとても大切な要素です。「文部科学省」の皆様、どうぞ宜しく!

02-20: ウチのホームページ制作のお客さんで、「富士見堂」という葛飾にあるお煎餅屋さんがあるのですが、そちらのお煎餅は本当に美味しいんです。
“売り”が、こだわった無添加の素材を使っているということ、職人さんのハンドメイドだということ、それから、伝統的な製法や素材は変えずに、もっと今風なというか新しい味つけやテーマのものを打ち出して、“煎餅”という古い固定概念を脱して、洋菓子と同じように身近に親しめる商品を紹介してゆきたい、ということで、ハチミツを使った“ハチミツバター”とか、オリーブオイル風味の“バジル”なんていう女性好みの商品もあったり。(既に女性から多くの反響出てます)
富士見堂のホームページへ!ホームページを作る時の取材で、サンプルとしていくつかの種類を頂いたのですが、これが美味しいんです。 こちらのキャッチフレーズに「ご飯の味がするお煎餅」というのがあるんですが、ホントにそんな感じ。
こだわっているだけあって、もちろん値段はその辺で売っているものとは違いますが、ギフトにはお勧めです。 ギフト用の詰め合せシリーズも豊富で、それと最近出した木箱のギフトボックスはとてもシブイです。 これなら好き嫌いも無いでしょうし、ちょっとした贈り物に良いんではないでしょうか。 個人的なお勧めです。

02-06: 3日前のニュースですが、ニュースとして久しぶりに感動したのが、“一人の受験生のために新幹線が止まった”というあの話です。
概要は、福島県のある受験生が、受験のため新幹線で郡山駅へ行こうとしたところ、乗った便が郡山駅に停車しないことに気付きました。 あせった(多分)彼は、車掌にどうにか停車してもらえないかと相談しました。 車掌は本部にその旨を連絡しましたが、ダイヤの関係で郡山駅停車はことわりました。 しかし、これも本来停車しない宇都宮駅ならば、後続車に影響が出ないことと、そこから郡山駅に向えば、なんとか試験開始時間に間に合うことから、特別に宇都宮駅で1分間停車させることを決め、受験生もギリギリで試験に間に合ったということでした。
前例としは急病人などの対応で、年に何回かはそういったことがあったとのことですが、自己責任時代の風潮から考えて、“停車駅を確認しない君が悪いんだから・・・” となりそうですが、そうならずに、ダイヤにシビアな電車、それも新幹線を1分間でも止めたということに、人の温もりと、“ この社会は人間が動かしているんだぞ ” という意志のようなものを強く感じました。 日本の社会も捨てたもんじゃない!という希望のかけらを感じました。
こういう話はイイですねー、シビアだったり暗かったり、気色の悪いニュースばかりでなく、こういう温かい話を、報道のみなさん、もっと見つけて、報道してくれよっ! 希望の未来は、テレビ局が何を流すかにかかっているんだから。

01-28: 今日、新しくお取引いただくことになった某業者の担当の方がみえたのですが、お住まいがウチ(店)の近くで、しかも出身が同郷でした。 やはり同郷というのは何か嬉しいもので、だんぜん親しみがわくものです。 最近はお笑い界でも熊本出身がポロポロと目立ちますが、意味もなく見る目があたたかくなります。
“頑張る” という言葉も、頑張るのも好きではありませんが(昔は好きでした・・・)、熊本出身者の皆さん、僕も頑張るからみんな頑張りましょう!

01-25: 遅れ馳せながら、新年明けましておめでとうございます!
いろいろと忙しく、新年最初のひとり言が今日になってしまいました。 忙しいというより、書くきっかけがなかなかつかめなかったというところでしょうか。
今年の抱負です。 今年も変わらず、“ 信じること ” が抱負です。
何を信じるのか? それは、2002年に決意した、「天国の住人」になることです。
それを決意させたのは、2001年の911テロと、米政府の報復攻撃でした。 その時、「天国」とは正反対の “地獄” を強く感じたからです。 テロリストと米政府双方のとった選択は、これからの世の中に地獄の連鎖を提案する圧倒的な表現でした。 そして強く思いました。 「彼らが提案する現実は、僕の生きる場所ではない」。 その提案に引きずり込まれてはいけないと思いました。 そして唐突に、「天国の住人」になろうと決意したのです。 天国とは、お互いに自分の持つ要素を与え合いながら生きる場所です。 ビジネス業界でも最近提唱されているWinWinに近いです。
そうやってお互いに与え合いながら、自然も含めてそれぞれの個が在りたいように在る世界を、身近な場所、家族や友人・知人のレベルから実現させながら生きる、それが広がり、世の中全てがそうなることを信じる、それを揺るがすような現実を見たとしても、信じる、何がなんでも、信じる、それが今年の抱負です。

2005

12-30: 今日は2004年の12月30日。
いよいよ、今年も残り1日ちょっとになりました。

毎年、師走から新年にかけて、“なんだか正月っていう感じが無いなぁ”などと感じ続けてきましたが、何故か今年は、今までと違う、“今年が終わって新しい年になる”という感じを受けます。
とは言っても、やはり昔ながらの正月という感覚ではなく、この数年感じてきた年の流れの中での、“新しい年になる”感じなのです。
これはいったいどういう感覚なのか、といろいろ考えましたが、今年という年は、昨年(2003年)から始まりだした“新しい出会い”が様々形になりだして、いろいろと新しい事柄が始まった年だったからかもしれません。
1999年に希望のもとにこの店を始めて2001年の中盤までに様々な苦汁と思考錯誤を味わい、そしてあの2001年の911で基本的な価値観に衝撃と狂いと、そして方向修正を実感させられ、2002年にもがきながらの思考錯誤、それらが2003年に形を現しだして、そして今年、これから先に通じている道を歩き始めた・・・そんな感覚です。
確かに、世論に不安を与えるような大きな事件・事故も多数ありました。それらを解決するためには、気の遠くなるようなエネルギーが必要なのでしょうし、解決など論外かもしれませんし、否定的な感情を持ってしまう人達も多いと思います。
でも、人間はそれでも明日を生きるもの。希望と友愛と冷静さが必要なのでしょう。
混沌、カオスの中だからこそ、希望と友愛と冷静さを持って生きたいと思います。
表面的には不安材料が多いような昨今ではありますが、水面下ではどんどん新陳代謝が起きているのだと思います。時々思うことに、「人間の心は不安や苦悩を感じるためにあるんじゃない、嬉しさや美しさを感じるためにあるんだ」ということがあります。そう信じています。
縁あってこれを読んでいる人、それぞれの“嬉しさと美しさ”を感じましょうね!
来年も、よろしくお願いします!

12-14: 最近、店の近くを夜に散歩してみました。拡大写真を表示!
このあたりも静かな住宅街が並び、毎年X’mas近くになるときれいなデコレーションを飾るお宅が少なくありません。 今年はどんな感じだろう、と思い歩いたのですが、驚いたことに飾り付けをしているお宅はほとんどありませんでした。
すぐに頭に浮かんだのは、新潟の地震による被害。 確かに、被災者の方々は、X’masどころではなく、やっと仮設住宅に入れたか入れなかったか、という厳しい冬を迎えていらっしゃるのです。
もちろんこれは “そうなのかもしれない・・・”という想像です。 地震のほかにも、北朝鮮の問題、イラクの自衛隊派兵延長の問題、その他諸々、難しい問題が山積した状況の中で、もともとクリスチャンでもないのに、X’masに浮かれている場合じゃない・・・ということなのでしょうか。
私ももともと、X’masの時期だけに競うように派手なデコレーションをする事には、ちょっと違和感を持っていました。 バックグラウンドの無いことに、表面だけで乗せられる、というのが好きではありません。 子供の頃はX’masが大好きだったけど、大人になってから、商業主義のものには興味が無くなりました。 本当に中身のあることが具体化されること、本物、やはりこれが一番です。
でも、イルミネーションはきれいですね。 男のくせにと言われそうですが、きれいなものを見ると、「うわー、きれいだなー」と、思わず立ち止まってしまいます。 だから、表面だけのX’masには反対ですが、イルミネーションが少ないのはサミシイ・・・。
単純にイルミネーションが好きな方は、一年中飾られてはどうでしょう。 時々、雰囲気のあるレストランやなにかでも、一年中イルミネーションをさりげなく飾っているところがありますね、あれで良いのではないでしょうか。 ゴテゴテにならずにシンプルに、でもきれいな飾りつけ。 問題が山積しているような世の中だからこそ、きれいな事が好きな方は、さりげなく、きれいなデコレーションで、見る人に嬉しさを感じさせて下さい!

**** 右上の写真は、このあたりではちょっと有名な、毎年きれいなデコレーションを飾ってくれるお宅のデコレーション。 今年もきれいに飾られていました。 写真をクリックすると、3枚の写真が出ます! 

11-22: ドキュメンタリーが好きで、時々日本TVで深夜にやるNNNドキュメント ’04を見ます。
昨晩やっていたのが、「ひきこもったから今がある・・・」というタイトルのものでした。
内容は、大学生時代にある事がきっかけでひきこもってしまった青年が、「電波少年」の企画でカンボジアで道路修復に携わり、その経験の中で生身の人間に触れ、それにより何かが変わり、そしてその後の彼の行動と心境の変化などを淡々と追ったものでした。
20代の前半に一度ひきこもりを経験している私は、数年前から社会問題になっているひきこもりに関心があって、このテーマの番組もつい見てしまいます。 ひきこもりにはいくつか種類があり、これはちょっと・・・と思う種類のものも少なくないのですが、今回の青年、荒井伸元さんの場合、自分という人間が社会というものに関わる中で、社会に対する本当の自分の役割(目的?)というようなものを真剣に、そして真摯に、悩みながら探っていく過程での経験であることがよく伝わってきました。 真剣なだけに不器用ではあるけれど、自分とまっすぐ向きあいながら、着実に自己を生成してゆく姿に、共感と嬉しさのようなものを感じました。
現代社会は過去の様々な歴史の中で、人間の愚かさと素晴らしさを同じくらい豊富に経験してきた時代で、しかも物質的にも豊か。 この人間の段階としてはある意味とても高度な精神状態にあります。 でも、社会のごった煮の中で生きていると、普通の人達でも自分の奥底にあるピュアなものが社会に対して静かな拒絶反応を示してしまいます。 自分でも、その拒絶反応を示しているものの正体が分からなかったりします。 自分の奥底が求めている状態が何なのか答えが見つからず、こもってしまうほか方法がなくなるのでしょう。
それぞれのヒントが見つかるとイイですね。 それを見つけるには、行動しかないのでしょうね。 行動すると、何か必ず感じるものに出会う、それは人かもしれないし、情景かもしれないし、言葉かもしれないし、物であったりもします。
もしこれを読んでいる人で、あなたがひきこもってしまっていて、もしその状況を何とかしたいと思っているならば、お勧めは外国に行くことです。 言葉や習慣の違う外国では、自分や自分の環境をより客観的に見ることが出来ます。 自分を客観的に見ると、自分や自分の立場に与えられている恵やポテンシャルを知ることが出来ます。 自分は、自分が考えているよりもっと輝きを内在しているものなのだという事を知れば、狭い世間の中でこもる必要性が無くなります。
道は必ず開かれています。

11-06: 実は2000年の選挙の時からBushには良い印象がなく、就任直後に彼が行った中東へのアクションを見て、“ やはりそうか・・・”、更にクリントン時代に合意の方向であった「京都議定書」を蹴ったことを知り、“ これは・・・”。 そしてその年の秋に、あの強烈な事件があって、その後の対応・・・。
ですから今回は私も正直、“ anyone but Bush ”でした。
しかし、接戦ではあったものの、キャンペーン中からやはり支持は強く、その流れの結果が出たわけです。 結果に至るまでのリポートを見ても、特に今のアメリカがどれほど「保守」に偏っているかがわかりました。
世界の文化圏との接触が多い東西の海岸地域では、まだ新しい方向へシフトしようといった考えを持つ人が多いようですが、内陸であったり、人々が昔ながらのアメリカを生きている地域では、民衆にとってアメリカ以外の国など全く関係のないことであり、アメリカこそが「世界」なのです。 そういった地域では、やはり昔ながらのアメリカの価値観を強く見せるBushはヒーローです。
特にあの事件以降、アメリカ人における保守的な傾向は強まり、宗教感においてもトラディショナルな立場をとっている人が全体の4割に達しているということにも驚かされました。 しかし今回の結果に結びつく感情は、何もアメリカ人特有というものではないように思えます。 中西部の伝統的なキリスト教を信仰する人達のリポートを見ながら感じたことは、もし自分が、健全で規則正しい真面目な日々を送る従順な人間で、代々伝統的な形のキリスト教を信仰している家庭で何不自由なく育ち、アメリカのような歴史を経験してきた大きな国に生きていたとしたら、ああいった指導者を迷い無く求めるのだろう・・・という事でした。
picture by NYT
今回の選挙では、当初の希望であった “ anyone but Bush ” が実現されませんでしたが、そのことに落胆ではなく、現時点での人間の、等身大の何かを見せられたような気がしました。 そしてもう一つ、Bushではない誰かを望んだということは、Bushが代表している圧力のようなものに蓋をしたいと思っていたのかもしれないと感じました。 しかし、それを表舞台から引きずり落として蓋をしたとしても、問題は解決しません。 Bush政権の行動に問題があるとしたら、それを支持しているパラダイムが変わらなければ、同じことの繰り返しがあるだけなのでしょう。
何しろこれからの4年間も舞台は彼を選びました。 まずはその現実を受け入れ、ここで批判的な立場を改め、中立的に観察して、彼だからこそ出来るかもしれない外交政策に希望を託したいものです。
(とりあえず、経済的な影響は彼の続投である方が安定するようです。)

10-24: 毎日生きていると、普段は考えないようなことを考えてしまったりします。 特に、その時の自分が何か空回りしているように感じる時、「何かすっきりしない・・・自分の本当の姿とはどんなものなんだろう・・・」。
そして、そんな風に感じて、自分で思い出せる、子供の頃の自分のイメージ、感覚を振り返ったりしていました。 何か釈然としない気持ちで。
そんな時、ある場所でこんな読み物を見つけました。(質問者と回答者が対面しているように作られた内容です。)

*********************************
(質問者・・・) 夢の中で私は自分の家にいます。 突然私は、家の中に今まで見たことのない扉があることに気づきます。 扉を開けるとそこには大きな部屋が広がっています。 その部屋には古い家具が詰まっています。 それらの家具は、私が生まれ育った家に置いてあった、両親の家具にそっくりです。 そのとき、「これらの家具を処分したら、芸術家が入居できる」という思いがなぜか心をよぎります。 私はとても幸せな気分で目を覚まします。」

「(回答者・・・) 幸せな気分になったのも道理です。 あなたは、今まで気づかなかった未知の可能性に目覚めるよう奨励されたのですから。 夢に出てくる家はあなた自身を象徴します。 大きな部屋は、あなたの中に眠っている大きな可能性を表わします。 この部屋に通じる扉を見つけたということは、自分の可能性を探る用意が整ったことを物語っています。 でも、最初に厄介な作業をしなければなりません。 その部屋には、あなたの子供時代を連想させる家具が詰まっています。 子供時代、あなたは自分が誰で、どんな能力を持っているか、という考えを刷り込まれました。 家具を処分するという行為は、そんな古い思い込みを捨てることに通じます。 特に「私はクリエイティブ(創造的)な人間ではない」という思い込みが最も望ましくありません。 あなたは疑いなくクリエイティブな人なのです。 あなたの中に眠っている「創造する才能」を開拓し始めた途端、あなたの「心の部屋」に芸術家が入居するでしょう。 その芸術家はその部屋を、今よりもずっと楽しい場所に模様替えするお手伝いをしてくれるでしょう。
*********************************

この話を読んでいて、あることを思い出しました。
それは、“本当の自分” とは、決して「過去」にはいないということです。 スタートは常に「今」 であって、「どういう人生を生きる人になりたいか」 という意志の中に、その時の本当の自分が居るということ。
そもそも、“本当の自分” などいないのでしょう。 常に、「どうなりたいか」 という、「その時々の自分」 があるだけなのでしょう・・・。
ただ、上の読み物の中にも出てきますが、「・・・という考えを刷り込まれた」、「古い思い込みを捨てること」・・・。
これがなかなか難しいですね。 思い込みや刷り込まれたことは、かなりしぶとく染み込んでいたりしますから。
急いでも、きっとコケますから、少しづつ、「こう在りたい自分」 に近づくようにしたいですね。

10-20: 9月はWebページの制作業がとても忙しく、また久しぶりの書きこみになりました。

今日はまた台風(23号)の上陸で、18時10分現在、東京もだいぶ雨がひどくなってきました。
今年は台風が多いですが、去年の書き込みを見ると、去年もやはり多かったようですね。 そして去年も書いたことですが、何年か前に教育TVか何かで見たのですが、「地球温暖化」によって、南で起きていた自然現象が北上しているとのこと。 だから、台風の発生する緯度も、昔より北上していて、それで台風がまだ強力なウチに、日本に接近(上陸)し始めているようです。(余談ですが、以前は見られなかった熱帯魚なども、何年か前から日本の漁場に上がってきているようです。某漁師談) ウチは両親ほか親族が九州におりますので、毎週他人事ではありません。 幸い、今まで被害も無く、今回の23号も、途中で少し東よりに進路を変えたことで、風雨はそれほどではなかったとのことでした。
東京は前回の22号の時は勢力維持のまま直撃だということだったので店を夕方に閉めたのですが、結局大したことはなく、天災に関しては本当に恵まれた土地だと思います。 今回も衛星写真を見ると確実に上を通るようですが、大丈夫なのでしょう。
意外なことに、毎年必ずやって来るこの台風の発生メカニズムというのは “観測困難” なため、実ははっきりわかっていないようですが、“海面温度が高い” ことが発生の第一条件とのことなので、やはり地球がかなり暖まっているのでしょう。
それにしても、四国や紀伊半島などの地域の方々は大変です。 台風は毎年必ず来るものですから気をつけてお過ごし下さい。


08-15: 今日の東京は、朝からしっとりと、久しぶりの雨です。それも、ちょっと肌寒い。
今日8月15日は、お盆の最終日の前日で、終戦記念日。 「今日はみなさん、外に遊びに出かけたりせずに、家の中でしっとりと、色々なことを考えてみては・・・」とでも(“誰か”が)言っているような天気です。
「お盆」とは、正確には “盂蘭盆会” というそうで、それはもともと、サンスクリット語の “ウラバンナ” という語の音を日本語に音訳したものだということ。>> http://www.miyagawa.com/syuha/2101-2.html
「終戦記念日」は、1945年8月15日正午、当時の天皇陛下が国民に向けて、“日本が敗戦” したことをラジオ(玉音放送)で伝えた日を終戦記念日としています。
日本が降伏を決意した同年は、5月7日「ドイツ無条件降伏」、6月23日「沖縄全滅」、7月26日連合国の「ポツダム宣言発表」、7月28日日本国首相「“ポツダム宣言黙殺” 発表」、8月6米国による「広島原爆投下」、8月9日米国による「長崎原爆投下」と、この流れを書いているだけで涙が出てきます。
ポツダム宣言」時に、英断を下していれば、2回の原爆投下は無かったのですが、まさかそんな恐ろしいことが起きるなどとは考えつかなかったのでしょう。
それぞれには、それぞれの理想と正義があって、その中にいると、その中だけでの意志による決定しか出来なくなってしまうことが良く分かります。日本がアメリカに対して開戦した経緯を見ても、何も日本が世界征服を目論んだわけではなく、当時の日米の交渉の中で、日本国の立場としてはこの方法しか他に選択が無いといった状況があったようです。当時の日本の立場としては、米国(連合国)に対して開戦することは、“正しかった” わけです。 (そして戦争はいつでも、それぞれの中では正しい選択なのです。)
“殺したり殺される行為”自体は、確実に間違った行為でありながら、それを選択せざるを得ない状況を創り出す “もの(こと)” とは何なのでしょうか?
その “もの(こと)” の仕組みや正体は(きっと)それぞれの個体(自分)の中に刻まれた “何か” です。
夕焼け空の拡大を表示! それを探し出して、抱きしめてあげなくては・・・・。
Give peace a chance !

                    >>ある日の夕焼け空(この時、別の場所では虹が出ました)

08-02: 書こう書こうと思いつつ、7月も忙しくて結局1ヶ月以上書けませんでした。

実は今回の話は7月に起きたことです。
去る7月21日確か水曜日の夜9時過ぎ、店を閉めるために表に出て店頭のワゴンなどを店内に入れている時のこと。 ワゴンを入れ、そのワゴンの踏み台に使っているブロックを取ろうとすると、なんとそのブロックの裏にセミがくっついていました。 それも、ただ成虫のセミがくっついているのではなく、あの“抜け殻”になるカラから羽化して、まだ薄いグリーン色をした、成虫になったばかりのセミが、ウォーミングアップしている状態でくっついていたのです。
実を言いますと、これは初めてではなく近年毎年のことなのです。 同じ状態を見たのが2回目、抜け殻だけを発見したのが2回の、合計4回。それも、まったく同じ場所、同じブロックの裏で毎年起きることなのです。
不思議です。
セミの羽化・拡大写真を表示! 理屈ではうまく説明がつかないと言いますか、セミはそのさなぎ(?)の段階では確か土の中におります。 そして、成虫になる段階で、もぞもぞと地上に出て、木に登り、じっとして羽化を待ちます。 羽化したら、またじっとウォーミングアップをして、これも確か明け方頃に飛べる状態になり、めでたくセミとして活躍を始めます。
何故、「木」ではなく、ウチのワゴンの下のブロックの裏なのか?近くに木はあるのに。
しかも毎年同じ場所で。「しゃけ」か !?
ご近所の木の茂るお庭から出てきて、えっちらおっちらと炎天下の道路の上を歩いて来て、日が暮れる頃にそのブロックにたどり着き、ブロックの裏にしがみついて、そしてじーっと羽化を待っているまでの道のりを想像すると、愛しいと言うか、わざわざ来てくれて有難うという気持ちになります。
普通はセミの羽化なんて、NHKの理科の番組でしか見れない現象。しかもこんなに身近で羽化をしてくれて、なんだか “いのち” をいただいているような、また勇気づけられたような感動があります。
そしてやはり、不思議です・・・。

06-20: 突然ですが、本日、オリジナルで「天国の住人」Tシャツを発表しました。(このサイトでですが・・・)

実は2002年に、当面の目標を「天国の住人になること」に設定し、日々、それに向けて生きてきました。
それでこの春、Tシャツを作りたいと思い、デザインに悩んでおりました。
「天国」というのは、かなりアリキタリなため、デザイン化しようとすると、どうしても野暮ったくなってしまうものですから、相当悩みました。しかし、悩み過ぎても形にならない事に気付き、まずは第1弾。
まあ英語のスペルは古臭いし、和柄を着るタイプでもないし、パッと見ても何と書いてあるのか分からないラテン語系列にしよう、イタリア語とフランス語を比べると、フランス語の方が見た目が整っていたので、フランス語で「citoyen de ciel」と決定しました。>>
「天国の住人」などとはまた唐突ですが、私、いたって真面目です。(なかなか難しいんですが・・・)

05-03: 今日は最近よく論議されている“憲法”ができた日。
正確に言うと、「1947年5月3日、“日本国憲法”が発布された」ということです。
正直言って、私もその”日本国憲法”を全て読んだ事がありません。
ただ、以前某NHKのドキュメンタリー(だったと思う)で、当時のGHQらと共に憲法を一生懸命に作った日本人女性の話を見ました。 曖昧ではありますが、それまで、日本の憲法は米国政府によって同国の都合の良い様に作られたんだろう、くらいに思っていました。 ところが(そのドキュメンタリーを見る限り)、とても高い意識のもとに、思っていたより民主的に、短い期間ではあったらしいのですが、とても丁寧に慎重に、そして何より平和への願いを込めて作られたものだと知り、感動した記憶があります。
今論議されているのは、その憲法の改正が必要か否か。
最近の讀賣新聞(確か)の世論調査では、全体に対しては改正に賛成が約5割。 しかし、あの第9条に関しては6割の人が「改正すべきでない」と答えていました。
6割という数字は微妙に感じますが、それでも半数を10%越えた人々が、「日本は武力を行使すべきでない」とはっきりと考えていることを知り、まずは安心しました。(9条は短いです。こちらで見れます>>
“グローバルな時代において、日本も先進国である以上、ミリタリーを意識すべきだ”という風潮があるようですが、そうじゃないと思います。 ミリタリーの概念こそ20世紀までのもの。 武力を放棄して、抱き合うことこそ、先進の概念です。
もう亡くなった、ある著名な外国人が言っていた言葉を思い出します。

「日本人とはなんと素晴らしい国民だろう!争いがあった時、戦うことよりまず、立ち止まって、静かに見、相手の立場をも感じ取り、そして少しづつ話す。 この感性こそが、21世紀に起こる世界的な紛争を、友情をもって解決してくれるだろう。 私はそんな日本人を尊敬している。」

05-02: 高円寺のベーカリー
         * * * * * ● “昭和”のお店 ● * * * * *

 先日、とても久しぶりに高円寺に行ってきました。
南口にあるアーケードは、青梅街道まで延々と商店街が続いていて、さすがは名だたる庶民の町だということを再確認。 しかも最終地点まできちんと人が流れている。
 その中間地点くらいだったでしょうか、記憶の底にあった景色が、突然わたしの心に飛び込んできました。 遠い昔、おばあちゃんにオンブされて来たことがあるような場所が、目の前にありました。 思わずデジカメを取り出してシャッターをきりました。 パンを買って、ご主人に話を聞くと、昭和25年からやっているとのこと。 半世紀。 “レトロ”なんてカッコイイ言葉には置きかえたくない温もりがありました。 コンビニはもちろん便利だし清潔なのですが、こういう、人の心を感じられる店も、ずっと残って欲しいと思います。 鮮度が多少悪くても、何十円か高くても、こういう店を大事にしたいです。

04-25: カトラリー東京は今日もとても気持ちの良いお天気です。
天気はイイけど湿度が低いようでカラッとしていて、昔子供の頃、北海道に行った時の肌の感覚を思い出しました。
今日の仕事は、商店街から依頼されているマップチラシの作成がメインなのですが、こんな日は爽やかに仕事もはかどりそうです。


     窓側にあるカトラリーコーナー(個人的にも好きなカトラリーたち) >>

04-17: とても忙しい日が続き、ずっとひとり言を書けません。 忙しいことは良いことなので、もちろん全く不満などはありません。 諸々のお仕事を通して私という人間を使って下さっている方々に素直に感謝しています。 ありがとう御座います!
話は全く違うのですが、当サイトのリンクページでも紹介しているあの“FRESHNESS BURGER”のサイトが、なんと新しくなってしまいました・・・。 個人的に、前のサイトの方が、フレッシュネスの昔の雰囲気がよく出ていて好きだったのですが・・・。
まあ、時代に合わせるということは、企業にとっては必要なことでしょうから、仕方がないですが、でも、何でもかんでも洗練されてしうのは、とてもサミシイ気がします。 今の時代、洗練させないと、企業の鮮度を疑われたりするので洗練は必要なことだとは分かっていますが、整備させる部分と、あえて洗練させない部分と、どうにかうまいバランスは無いものでしょうか、、、。 その点海外は、いろいろと、日本人から見るとドン臭い感じが平気だったりします。 個人的には、それが大好きで、逆にカッコ良く感じたりします。
日本は本当に洗練度が高いです。 畳となんとかは・・・という気質なのでしょうか。 
そんな国に生まれたことを幸せに思う部分と、なにか、それがいろんな意味での空洞化を象徴しているように感じる部分と、微妙なところです。

02-03: 今日は「節分」です。
「節分」の日は、新しいことがスタートする日だと言いますから、何かを始めるきっかけとするのに丁度良いですね。
何かを始めるきっかけは、友人や知人が運んできてくれたりする事が多いものです。
そしてそのきっかけとなる話には、気付きにくい事も場合もあったりするものです。
“ 「大切なこと」は、話の本題にではなく、話がひと段落して、その後の「無駄話」の中に隠れているものだ ”
という事を、何年か前に聞いたことを思い出しました。
この事を、是非お役に立てて下さい!! 頑張りましょう。

01:01: 2004年が明けました。
おめでとう御座います!
昨年までにいろいろと思いをめぐらせてきた事を、小さなことから現実のものにしていきましょう。
願いは叶うものですし、そのことに勇気を持つためにも、小さなことから着実に。
make our new year !

2004

11-22: 今日は、曇りですが、11月の、曇りなりの、イイ天気です。
“罪悪感”。
突然ですが、生きていると色々なことがあって、それに対して、“罪悪感”を抱いてしまったりします。
そして、人のイイ善人ほど、その“罪悪感”に悩まされたりします。 人がイイからこそ、“あぁ、悪いことしちゃった・・・”と、自分を恥じて、自分を責めてしまったりするんですね。
昨今、思いやりの感覚が薄れかけているようで、逆に殺伐とした感覚が広がっているようではありますが、そんな中で、いろいろな出来事で、“罪悪感”を感じている人は、とても貴重な人の一人かもしれませんね。 もし周りに、悩んでいるような人がいたら、何に悩んでいるかというより、悩むことをする、とても大切な人として、大事にしなければ・・・。

11-9: 昨日某NHKを見ていたら、「セサミ・ストリート」の歴史を扱っていました。
昔から定番的に感じていた「セサミ〜」ですが、あの番組も、かなり“熱い”番組だということがわかりました。
始まったのはもう40年ほど前なのですが、当時からアメリカでは貧困家庭の悪循環というのが問題になっていたそうです。 貧困な家庭では子供達が学校に行く前の段階で、親による基礎的な教育を受けられず、その状態で学校に上がると、満足に授業についてゆけない。 授業についてゆけないと、学校が面白くない。 ドロップアウトする。 学校でドロップアウトすると、普通の職につけない。 普通の職につけないと、貧困になる。 貧困になると、また貧困家庭を作って、自分と同じように将来学校からドロップアウトしてしまう子供達の環境を作ってしまう。
この連鎖をどうにか断ち切らなければいけない、という事で、政府によるプロジェクトが始まったという事です。 当初、子供達向けの施設で対応しようとしたらしいのですが、教育用の人材も含め物理的に不可能でした。 そこでTVを媒介とした画期的な教育が出来ないものか、ということで、現在の「セサミ・ワークショップ」が始まった。 というのが概略です。 もともと愛情に熱いアメリカ人気質で、情熱を込めて作られたのが、画期的な教育番組の「セサミ・ストリート」でした。

下の画像は「セサミ・ワークショップ」へのリンクで、そのページに出てくるこの画像と同じ絵をクリックすると、「セサミストリート」のサイトへ飛べます。 カワイクて、楽しいサイトです。 同じく「セサミ・ワークショップ」のトップページの、左側の子供の画像をクリックすると「セサミ・ワークショップ」のコンテンツページへ飛びます。子供達の表情がとても良いです。 その他、サイト・マップ(SITE MAP)を開くと、他のキャラクターのページもありますよ。

セサミ・ワークショップ へ Copyright : http://www.sesameworkshop.org/
:このサイトは、リンクで飛んだ後ページが表示されませんが、ブラウザで「更新」すると表示されます。)

11-8 : 「選挙」です。
明日は投票日。 投票には行きます。
もう毎回行ってますが、行くようになったのは、バブルの崩壊後、政治の問題解決が遅れるなどの事柄が大きな要因となって、銀行や企業の倒産などが始まり、また起きる事件なども、従来の常識では考えられないような事が起き始めた頃でしょうか。 丁度その頃、自分も独立開業という目標を明確に持ち始めていた事もあり、世の中の社会的・経済的な問題が深刻になってはいけないと、政治を考えるようになりました。
でも、日々政治について勉強をしているわけでもなく、学校に通っている頃から「政治・経済」は頭に無い科目だったこともあり、とても正直な表現をすると、よくわかりません
この10年ほど毎晩かかさずニュース番組を3本立て続けに見て、毎月テレ朝の「朝まで生TV」を見て、眼の下にクマを作っても、よくわかりません。
ただ、世の中を、自分のような人間でも正直に平穏な心で生きれるような方向にもってゆく事に、一人の人として参加しなければ!という気持ちだけです。
でも、本当は、政治の行方など、誰にもわからないと思います。
政治家にも、専門家にも、長老にも、高学歴の人にも、私のように勉強が嫌いだった人間にも、誰にもわからないと思います。
ただそれを、どうせ変わらないしととらえるのは、完璧な誤解だと思ってます。
政治は時代のハプニングだと思います。
ハプニングを起こすのは、民衆のマインドだと思います。
ナチスの時代も、日本が太平洋戦争に突入した時代も、そこには民衆のマインドが強く働いていました。
どうせ変わらないしという感じ方は、色々なことが穏便ですんだ時代の、古い感じ方かもしれないですね。
政治は難しいです。専門家が集まっても、一つの事柄にみんな違うことを言います。
ただ、大切なことは、政治家と民衆の立場を明確にする事のような気がします。
何か、政治家=国 は偉くて、民衆を統治している王様のような立場で、民衆は、政治家=国 の言う事やる事におとなしく従う立場なんだ、という捉え方の人が少なくない気がします。(昨晩やっていた筑紫さんの番組に出ていた20代に人達の発言からも) それは逆で、政治家は、民衆に雇われているのです。
だから、極端に言うと、民衆は、世の中を良くするために、政治家を使う立場なのです。
よくわからない政治を、わかる政治にさせて、個人がもっと密接にかかわれる政治にさせたいです。
自分も、暗い未来には生きたくないので、世の行方を、自分が生きたいと思える明るい未来にしたいです。
だから投票に行きます。
”こちらの政党を選ぶことで、必ずこうなる” ということは無いですが、”民衆の一人である自分は、明るい未来を作るためにあなた方を使う一人なんだぞ” という一票を投じるためです。
”POWER TO THE PEOPLE”です。
”IMAGINE”です。
頑張りましょう!                                    this page TOP

10-12:
part 2
青山同潤会アパート跡
昨日、原宿に行った時、青山同潤会アパート跡地がどうなっているのか見てきました。
スキな場所の一つだったので、取り壊しからどうなっているのか気になっていました。
左の写真は、原宿方面から歩いて来て、アパートが始まるところの写真です。既にアパートは無く、工事用のパーテーションが跡地を被っていました。 老朽で配管などの設備もボロボロだったとのことで、仕方がないとは思いますが、出来れば、修繕をして、建物を残して欲しかったと思います。
ちなみに、このアパート前の道、表参道は昔、日本軍の飛行機が飛ぶ滑走路としても使われていたという話を聞いたことがあります。(左写真をクリックで大きく開きます)

10-12: 「私の祖父は第一次世界大戦に反対して上院の議席を失った。そして10年後、彼はまったく同じ演説をして議席を取り戻した。 人々の態度は変わるものだ。」
とは、アメリカ人作家のゴア・ヴィダルの言葉です。(”ジョナサン”のページより。)
それにしても、本当にそうですね。
自分の人生を実現している人の多くは、信念をもって自分の信じることをやりとおしたと聞きますし、昔から、「信じる者は救われる」と言いますが、人の世とは、”浮世”でして、千差万別の「ああ言う・こう言う」の坩堝です。
そんな中で自分が、いかに大事なことを信じきりながら生きられるか、というのは、本当に大変なことです。
でも、本当の人生を生きるためには、一週間に一度でも、本当に大事なことを真剣に再確認することは大切だなと思います。 「自分を信じる」ことの方が、「空を飛ぶ」ことより、ずっと現実的で信じ易いことですよね。

09-30 ここ最近、Webページ作成業が平行して忙しいこともあって、なかなか書き込みが出来ません。
そうこう言っている内に、もう9月も末日になってしまいました。
夜もずいぶんと寒くなりました。日中は暑かったりするので、Tシャツ姿なのですが、夜は冷えるので、もう中綿がキルトされているJacketを着用しています。
基本的に面倒くさがりと言いますか、色気が無いものですから、オシャレには無頓着で、なにしろ、ザッと着て脱げるものが好きです。TシャツにGパンかチノパン、上着もザクっと着れるもの。
でも、適当でも物はイイのがイイですね、イイ物を着古していくのが。イイ物にはお金を払いたいです。
消耗品は出きるだけ安く上げたいけど、イイ物には、プライスタグをあまり見ないで、ザッとお金を払いたいです。
もちろんそれは理想であって、プライスタグとニラメッコしてしまうのが実情ですが、でも、目標としては、値段で物を買わない人になりたいというのがあります。お金は、使ってこそ意味がありますからね。
みんな、そうなれたらイイですね。

09-02 少々なまなましい事ですが、さきほど、久しぶりに「万引き」が発生いたしました。
20代の男の子で、このサイトでも紹介している携帯ストラップを2本、黙って持っていきました。
私は、”監視”することがどうしても嫌なので、いつものように仕事をしつつ、接客が必要な時に話しかけるというスタンスをとっていたのですが、それにつけこんだようです。
まあ、困るのですが、それより、”あんなカワイイ携帯ストラップ”を”盗む”ということが出きる神経が理解できません。
いや、カワイイからこそ、欲しくなるんですが、愛らしいモノは”優しさ”であり、盗むのは”卑しさ”と言いますか、優しさの反対のものなので、それが結びつかない・・・。
それにしても、小中学生ならまだしも、開いた口がふさがらないと言いますか、「青年よ、君はそんなダサい生き方でイイのか!?」

08-24: ”「自分時間」 の達人になる”
最近感じることの一つに、自分の感覚と、自分をとりまく環境が提示している 「時間」 が合わない、という事があります。
歳をとると、時間が経つのが早くなる、と言いますが、それは自分に大きな影響を与える社会的な環境の中で、自分で自分個人の人生を認識しながら過すという瞬間が、激減するからなのでしょう。
ただ、「振り回されてアッと言う間に・・・」と、「充実していてアッと言う間に・・・」というのとは、両極なようですが、でも 「アッと言う間に・・・」 という点では同じく早く時間の経過を感じます。
そして、「苦しくて苦しくて、早く終わってくれないか・・・」 と、「充実していて、ゆったりと時間を味わう」 というのも、時間を長く感じるという点では共通ですが、苦と楽では、両極ですね。
「苦楽は同じもの」という、仏教的な話ですね不思議です。
その議論は置いておいて、私は何しろ、どうやったら 「自分時間」 を生きる人間になれるか、という事を考えてしまいます。それは自分だけの自分時間というより、自分を取り巻く人達と合意した時間の流れが、自分にぴったりの「時間」 という意味です。
それを強く意識し始めたのは、2年ほど前の春から夏にかけて、だったと思います。
出来事というか、感じたことが二つほどありました。
一つは、売上げが思うようにいかず (いつもですが ^^; )、悩んでいる初夏のある日。その日は定休日で、アクセサリーの仕入れに、都内の某所へ行こうとしていた日でした。
住んでいる場所は、けっして陰鬱な感じではないのですが、日はあまり入らないもので、晴れた日でも室内は照明が必要な部屋です。
気分はすぐれなかったので、寝ていたかったのですが、朝9時頃、出かけるために身支度をし、玄関でクツをはき、それでは出かけるか、とドアを開けました。
すると、玄関のドアをパっと開けたその外には、パーっと広がる、ほどよく暖かく、太陽の陽光がさんさんと降り注ぐ、そして爽やかな風が木々を優雅にゆらしている、”初夏の大気”が、「ある風景」を見せていました。
その風景に包まれたその瞬間に私は、「永遠」 という存在を感じました。
その大気の感触に触れる直前、”店の売上げ” という、個人的人生の現実としては大切なことに危惧していた自分があったのですが、その大気と木々の見せた「永遠」 を感じた時、”地球” と、その上の自然、ただ、大地があり、ただ、木はそびえ、ただ、風は吹く、ということ、「ただ、在る」、ということに触れました。
私を含む人間たちが、色々な事柄に一喜一憂しながら 「時間」 の中に囚われているように生きている時でも、自然の営みは、(変化はしつつも)何億年と変わらずに、日は昇って、河は流れて、風は吹いて・・・。
それは、その時、「時間」 というものから開放された瞬間でした。
よく、「人生はゲームだ」 という表現がされますが、私たちは、ただ、在る、という、 「永遠」 という 「今」 の中に抱かれながら、「時間」 という概念にスケールを置いた、とてもリアルに造られている、真剣な”人生ゲーム” をしているのだ、という事をあらためて実感しました。
そのことを、その日出向いた仕入れ先の女の子に話したら、「ヘッヘッヘッー!」、「まーた稲岡さん、あっぶないこと言ってますねー!」 と、危ないヤツあつかいでしたが・・・(+_+) 。
二つ目は、ある夏の晴れた日、その日も仕入れの関係で、都心へ出かける最中のこと。
ウチから駅までは、自転車で10分ほどかかるのですが、時刻表で電車の時間をチェックし、少々余裕を持って部屋を出ました。 別に何の問題もないかに思えたのですが、こぎ始めてちょっとすると、向かい風がだんだん強くなってきました・・・。ギアを下げたり上げたり、前屈姿勢にしたり、いろいろやったものの、向かい風は壁のように立ちふさがり、こいでもこいでもなかなか前に進まない・・・。 時間は正確に進み続け、自分はダラダラ汗をかき、疲労が始まり・・・そしてまだ一日が始まったばかりだというのに一日分くらいを消耗しながらパっと顔を上げると、乗りたかった電車が向こうからやって来る・・・。ここでラスト・スパートをかければ何とか間に合うかもしれない!!っと思ったのですが、朝っぱらから大汗をかき、ヘトヘトに消耗しきっていたその時の私は、徐々に腹が立ってきました。
「僕はちゃんと時刻表をチェックして、当たり前だけど余裕をもって家を出た。それに、休日だけど何も遊びに行くわけじゃない、ちゃんと店のことを考えて仕事をしに行くんだ。そしてこんなに疲れ果てるまで一生懸命に自転車をこいだ。なのに何故だ!?僕は真面目にベストを尽くしたじゃないかー!!」 と。
そして、決心しました。 「ラスト・スパートはかけない」。「もう、そういう人生は終わりにするんだ」。
乗るはずだった電車は、去って行きました。
「チクショー!」とは意地でも思わず、「何かに必死に間に合わせようという人生があるならば、その裏の人生もあるはずだ。そしてその人生は、それはそれで、きちんと機能してるはずだ!」 と思ったのです。
その、今まで常識として教えられてきた世界とは「別次元」のような、次なる人生空間への期待を抱きながら、ゆっくりと自転車を自転車置場に置き、自転車整理のおじさんに「おねがいしますね!」と言い、ゆっくりと駅へ向い、ゆっくりと切符を買い、ゆっくりとホームに上がって行きました。
誰もいませんでした。
缶コーヒーを買い、タバコに火をつけて、その静かなホームを味わいました。 少しすると、2〜3歳くらいの子供を連れた若いお母さんがホームに上がってきました。 子供に何かポソポソっと話しながら。 時間はゆったりと流れていました。
幸い、一本電車がズレたものの、乗り換えはスムーズにいき、その日は一日ゆったりと着実に、仕事ができました。
そんな二つの出来事だったのですが、その二つは何か、自分で自分を変えた諸々の一つとしては、この4〜5年の内でもベスト3に入るものだったように思います。
でも、”「自分時間」 の達人になる” への道はまだ遠いものです。 まだまだ甘い(^_^)。
                                            this page TOP

08-08: 今考えていることの一つに、”思いやり” があります。
「”思いやり” が大切だ」 ということは、小さな頃から教わることですし、今さら考えるようなことではない、そういう事柄の一つだと思います。
でも先日、電車の中で、「じゃあいったい、自分が表現する思いやりとは、いったいどんな事だろう」 そう思いました。
相手の身になって、相手に何かいったりしたりしてあげること・・・まあそれはそうですが、相手のその時のコンディションや環境によっても変わってきますし、人によっても違いますし。
そうやって考えていると、「じゃあ ”思いやり” っていったいどんなことだ?」 と思いが広がってきました。
もしかしたら、ホントウには、誰にもわからないことなのではないか・・・。 分かっているつもりでも・・・。
つまりそれは、相手によっても、その場面によっても変わってくる、とてもデリケートで、”幸せ” と同じようなものなのですね。
それに、”押しつけ” であっては別物ですし、”自己満足をするための道具” であっては情けない話ですし。
ということは、「これで良し」 ということが全く無いわけですので、私たちは ”いつも” ”思いやり” と一緒に居る必要があるわけです。 自分自信が、”思いやり” という存在になってこそ、それを意識せずに、自然と ”思いやり” のあることを言ったりしたりできるんですね、 きっと。

人の中に生きて、人と接することを日常にしていると、そういう事を考える、自分を振り返ることが多いです。
一瞬〜を、自然なフィーリングで貴重な時として生きている存在になりたいものです。

08-05: やっと、「梅雨が明けたようだ」 という、まだ曖昧な発表があったものの、今日は東京は曇りから雷雨になりました。
夕立は夏の風物詩ですが、ずっと天気が悪かったので、なんだかただの夕立には感じられません。それに、早々と台風が来てますね。
何年前かに教育TVか何かで見たのですが、「地球温暖化」によって、南で起きていた自然現象が北上しているとのこと。だから、台風の発生する緯度も、昔より上がっていて、それで台風がまだ強力なウチに、日本に接近(上陸)し始めているようです。 ウチも故郷が九州なので、他人事ではないです。 そのウチ九州でもスコールが起きたりして。

話変わって。
ウチでは付き合い的に、「置き薬」を置いています。
その営業の方が今日、クスリのチェックに来たんですが、サラリーマンの方もお疲れだなぁ、と感じました。
実は営業の方が変わったので、「前の人は辞めたんですか?」 と聞くと、「移動です。いや〜、昔は社員が辞めて営業が変わることが多かったんですが、最近はね、辞められないですからね〜」 と、苦笑いというか、ニヤニヤっと、なんとも言えない笑い・・・。 サインをと言うので、「シャチハタでイイですか?」 と言うと、「ええ、何でも。私が偽造できなければ・・・最近、ちゃんと回ってるかどうか(営業に)チェックが厳しくて・・・」 この方は、いかにも誠実そうな人なんですが、「会社」は全体的に、いろんな意味で、以前とは比べられないくらいに厳しいようです。
もちろん、私のような個人経営は、毎月実際に綱渡りをしているのと同じ状況で、「厳しい現実」を生きているのですが、全く違った次元で、会社員の皆様はホントウに、お疲れ様ですm(_ _)m。
お客様にも、友人・知人にも、会社員は多くいらっしゃいます。 ホントウに、お疲れ様ですm(_ _)m。
星野さんも、王さんも、イチローも松井も、それから水泳の皆も(名前忘れましたスミマセン)、みんな頑張ってるし、とりあえず、頑張りましょう!!                             this page TOP

07-15:: 2ヶ月ぶりの書き込みです。
本物の”ひとり言”は一日中言っているのですが、仕事が忙しく、なかなかその頭の中のひとり言を、ここに書けない状況が続いています・・・。
それにしても、”忙しい”つまり、”生きることで忙しい”と、”愛”が欠乏してきます。
それとも、”愛”が欠乏しているから、”生きる事に忙しい”という事につながって行ってしまうのか・・・。
最近、”愛”が足りないな、それは ”自分発の愛” という意味ですが、そう感じました。
”生きる” という事は、本当に難しいです。
動物と違って人間には自由意思というものがあるから、その意思の発信地を、常に ”愛” にしながら生きるというのが難しいと思うのです。
そして、”愛” というのは、これまた広くて深いもので、なにも感情的にベタベタしたり、人に対して常に何かしてあげなくては・・・というものでもない・・・。自分に無理に義務感を持たせるものでもない・・・。 ”偽善” になってしまっては、元も子もない・・・。
ただ単に、”平和” であれば良いかというと、そうでもない・・・。 あえて悪者になって自分と戦わなくてはいけないような事もある・・・。 ひとつひとつの判断の発信地が、正直でなければ・・・。 そしてそれは、”でなければならない” という発想では、また本末転倒・・・。
でも、やっぱり、”誠実” であった方が良い・・・。 そして、そうも言っていられない・・・。
こうやって考えると、愛ある生き方というのは本当に難しく、結局、出来るだけ自然体でいよう、という結論です。

車に乗っていると、自分と直面することがよくあります。
車の多い道を走ることは、今の自分の状態を確認できる場です。
走っている車の数だけ、意思があって、走っているヶ所で、まあすんなり交通ルールが守られていて、その場の状況に応じた流れであれば何の問題もなく目的地まで辿りつくのですが、1時間も走っていると、色々な走り方の車に遭遇します。そんな時に自分がどんな反応をするかによって、自分の居る場所といいますか、それがわかります。
私は毎日、車の場合は片道で1.5時間、バイクで1時間を通勤していますが、これはホントに訓練になります。
もちろんその内容によりますが、回りに起きる状況に、不必要に反応しない、大らかな生き方で生きて行きたいです。

05-14: いま、両親が九州から出てきているのですが、その”出て来方”が、” ホンダの赤いワゴン車で延々と旅をしてきた ”という出て来方でした。以前から、「そのウチ、車で日本一周をするのだ」と言っていたのですが、どうやら「” 日本一周 ”は大騒ぎだ」という結論に達したようです。
それで、親父は以前から、「稲岡」という姓について研究しており(稲岡と申します)、つられて私も時々、ネットで全国の「稲岡さん」を拝見してまわっています。(もし「稲岡さん」ご覧になっていたら、こんにちは!)
「稲岡」という姓は珍しく、稲葉さん、稲垣さん、稲村さんなどは比較的いらっしゃるのですが、稲岡さんは、普段の生活をしているだけですと、なかなかお目にかかれません。
親父の話によると、私達の祖先の「稲岡さん」は、その昔、下級武士だったそうなのですが、「武士ってやつはどうも堅苦しくていけない。武士の肩書きなど売っぱらって、町人になろう!」と思い立ち、肩書きを売って、庶民になりきって生きたそうです。肩書きは売れたんですね。
そう言えば自分も「堅苦しい」ことが大嫌いで、下町的な雰囲気が好きだったり・・・。そのご先祖のDNAは脈々と受け継がれているんですね。
それと、私がお知り合いになる方や、お客さんには、どこかお侍やお姫さまのような気質の方が多い。
もしかしたらその昔、私のご先祖がお世話になったお侍や姫様の御子孫かもしれません。
いつぞやは、大変お世話になりました。これからも、宜しくお願い申し上げます!

05-12: なんと、こないだ ” 忙しくて、うんぬん・・・ ” と、更新が進まないことをお詫びしてから、更に1ヶ月経ってしまっている事に気づきました。
月日が流れるのが何と早いことでしょうか。
” 光陰矢のごとし ”。
でもそれだけ、一人でも多くの方が、ここでご紹介しているモノ達と出会う事が出来ているわけで、それはそういう仕事をしている私としても、嬉しいかぎりです。
これからも時間をみつけて、例えば作家さんのご紹介、例えば実店舗のある” 江古田 ”という変わった町の紹介、例えばリンクの充実、そして例えば、こんな私の日々感じることなどを、書き綴ったサイトにしてゆきますので、よろしくお願いします。                                            this page TOP

04-14: この一月間、多方面で忙しく、なかなかWEB関係の仕事が出来ませんでしたー。
書きたいことは鬼のようにありますが、じっくりと出来る時間がないのです。
国際情勢から、最近では都知事立候補された「ドクター中松」のことまでいろいろと書きたいのですが・・・。
それから、「ご紹介コーナー」にもご参加いただける方々がいらっしゃるのですが。
諸々の各更新内容、少し滞りそうです。

03-14: 今日は ”ホワイト・デー” ですね。かけ込みのお買い上げ、どうもありがとうございます!!
お蔭様で、電話代が払えそうです m(_ _)m !。
でもこういうイベント・デイは、私のような一人者の方の場合、いろいろな意味で「どうしよう・・・」なんて、ちょっと考え込んでしまうこともあるかもしれませんね。
そこで、私も同感な一言をお届けしたいと思います。
     「人生はマラソンなんだから、百メートルで一等をもらったってしょうがない。」 - 石坂泰 -
どこかで見つけてきた言葉なんですが、いろいろな意味で、「そうそう!」と安心してしまったり。
ただ、安心しきってしまうと、まずいかな・・・。

03-04: やっと3月になり、春を感じさせる暖かい日が増えてきましたねー、春一番も吹いたし!
でも今日は寒い・・・、それに加えて、ついに花粉症の症状が出てしまいました・・・。
4年ほど前から花粉症になってしまったのですが、たしか昨年は、症状が出なかったので、運良く抵抗力がついたのかと思っていました、が、今朝はズルズルでしたー。残念!

02-21: それにしても、世の中、どうしてこう争いや戦争が多いのでしょうか・・・。
”人類社会に戦争はつきものだ”。ということが、当然のように言われますが、どうしてなんでしょうか。
まあ、納得できる部分はありますが、本心では理解できない気がします。
日本人だからでしょうか。
日本は戦後、戦うことを憲法で放棄した国。日本人でいるより、外国から見た”それ”は、世界的にみて、かなり画期的な事のようです。 人事のように言いますが、多くの日本人にとって、”それ”は、やはり逆にリアリティーがないのではないでしょうか。
最近は、「日本の安全神話も崩れてきた」と言われていて、確かにうなずける部分はありますが、でも、海外と比較すると、やはり日本という国、国民性は、戦うということを望まない傾向が強いように感じます。
米ソの冷戦の仕組みが無くなり、世界的に”グローバル化”というタイトルの中で確かに大きく変化して、世界の中での日本という存在感が、以前より明確になりつつある中で、時々思うことなんですが、”日本”という国、国民は、もしかしたら、世界平和のために活躍すべき国、国家なのではないかなあ、ということです。
外国に、少しでも滞在したことのある人で、日本のすばらしさをしみじみと実感した経験を持つ人は、少なくないのではないでしょうか。 もちろん悪い部分はありますし、芸術的な文化レベルや、精神文化が貧困だ、という部分はありますが、それはどこの国、国民性をみてもどこかしら悪い・貧困だと思われる部分はあるわけで、それは置いておいて、日本、日本人は、実は素晴らしいのです。 いえ、これは妙なナショナリズムでの見方ではありません。 排他や保守的な意味での”素晴らしい”ではなく、建設的な意味で、あくまでも真摯に、”素晴らしい”のです。 ”プロジェクトX”を見ても、それはよくわかるのですが、もっと全般的に。
政府は、”国益”というものを第一に考慮し、国民から見るとイライラするような政策をとらざるを得ない立場にあるようですが、米・英との利害関係など普段考える必要の無い庶民レベルにおいては、戦争などせず、平和な世界を築こうという意思が大多数ですね。 どうにかそれを、もっと容易く、つまり普段のそれぞれの生活をする中で、世界に反映させることは出来ないものかと思ってしまいます。
”平和への貢献”という意思が多くの人にあったとしても、それを普段の生活と平行させて日常的に具体的に活かすことが難しい。 世界が平和で希望を持てなければ日本の経済も安定しない、世界共存時代。 どうにか、それぞれ普段の生活を維持・向上させようとする日常の中で、もっと具体的に世界の平和に貢献できる方法はないものか、思案中です。
(そう言えば、ノーベル賞の田中さんが、「受賞直後にオファーのあった50万ドルの年俸契約をけった」というニュースを見ました。これはある意味、「・・・金じゃないんだよなぁ」という、今まで世界のスタンダード視されてきた弱肉強食的、マネー崇拝主義がけっして”成功”や”幸福”なのではない、ということを暗に、世界的に表明した、無意識的な一つの平和活動であったように感じました。)
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02-12: 時々、「雑貨屋なんて気楽でイイね」と言われることがあります。
確かに、いわゆる「カワイイもの」に囲まれてそれを売っているので、それは気楽に見えるかもしれませんが、それなりに悩みがあります。世の中全般に太平な時代であれば、気楽にカワイイものを売って、ニコニコしていればそれでイイのかもしれませんが、こんな時代です、書くときりがないので書きませんが、世間のシビアな情勢は確実に影響しています。
雑貨屋などというのは、ただ物を売ればイイというものではなく、プラスアルファーな幸せ感を提供しなくてはいけない職業なので、本来シビアな情勢に影響など受けていてはいけないのですが、なかなかそうもいきません。
それでも、小さな幸せを見つけに来店していただくたびに、「ああ、少しは世の役に立っているのか」と、逆に励まされることばかりです。
こういう店をやっていると、何故か「一般人とは違う人種」のように思われたりもします。何か、「センス」や「こだわり」に妙なプライドを持っていて、普段そういうセンスにタッチしていない人を馬鹿にしているような、そんな風に思われたり、プライベートはそうとうオシャレな生活をしているんでしょう!など。
すくなくとも、ウチはグチャグチャです。店が終わって1時間ほどかけて自宅へ帰ると何もする気にならないのも同じで、無造作に物が積まれた部屋でTVをつけて、食事をしながら「今日一日の出来事」をチェックします。イイことも沢山あっただろうに、何故かニュース番組を見ていると、「この世は最悪だから早くあの世へ行こう!」というキャンペーンでもしているかのように見えますが。
でも、そんな世の中だから、ウチのような店に来て、少しでも幸せの種を持っていってもらえればと思います。
なにしろ、雑貨屋も意外と大変だったり、するんです。

02-07: ”プロフィール欄”に、「好きなこと」として、”ボーっとすること”と書いているのですが、まえまえから自分で、「好きなことが、ボーっとすることで、果たしてイイのだろうか???」と疑問を感じていました。
何か、もっと気の効いたこと、建設的なことの方がイイのではないか??? 確かに、ボーっとすることは好きではあるが、好きなだけに、”宣言”までしてしまうことによって、更に自分に対しても、ボーっとすることを奨励しているような、潜在意識に刷りこんでいるような、少し不安さえ覚えてきました。もっと自分に対してもハッパをかけるような内容にした方がイイような。
それで、某検索エンジンで、”ボーっとすること”と検索してみました。(これもバカらしい・・・)
すると・・・なんと多くの人達が、特に”プロフィール内容”としてその”ボーっとすること”をあげているかがわかりました。
マスに流されるわけではないですが、「じゃ、いいのかな・・・」と思い直し、「好きなこと」をそのままにしておくことにしました。
イイのかな・・・。                                       this page TOP

02-04: 02-02で「他の方法」などと書いたのですが、2/3のNTV某番組で何と、その「他の方法」を紹介していました。
ご覧になった方もあるかと思いますが、「リフター」というもので、電気をマイナスとプラスに分離することで浮力を発生させ
るという方法で、燃料を燃やさずに空中に浮遊するというもの。(右写真。参照はこちら。)
浮遊する様子はUFOそのもの。調べると、実は米国議会がこのリフターの科学的研究に資金を拠出することになったとのこと。(発明者はティム・ベンチュラという人。)
更に調べていくと、なんと「商工会議所」のホームページでも同じ内容を紹介していました。(「商工会議所HP(こちら)」の「ITリテラシー」の「マルチメディア・インターネット事典の「あいうえお順」の「り」の項目です。)
また「NASA」もいろいろとやってまして、「ワープ」や「タイムトンネル」に似た発想の研究にそれぞれ真面目に取り組んでい様子です。おどろきました・・・。

02-02: 昨晩TVでシャトルの事故を知りました。
宇宙計画のことにリアリティーはありませんが、そもそも、大爆発を人工的に起こして宇宙に行くというやり方が、もしかしたら限界なのでは??? 勝手なことを言っていますが、21世紀、そろそろ「燃料を燃やす」という原始的な方法でモノを動かすことを止めて、「他の方法」を真面目に考える時期なのでは。
なにしろ、「爆発させる」という不自然な行為は良くないと思います。だから戦争にも反対です

01-30: 寒い日が続いています。
オートバイで片道30kmを通勤している身にとって、もうそろそろ暖かくなって欲しいと思うのですが、宇宙のリズムには逆らえません。
寒いと言えば、ヒマラヤ山脈の、森林限界を超え、そのまた更に上に登ると、地球上でそこにしか生息していない”ノビレダイオウ”(Rheum nobile)という植物があるそうです。それが左の写真です。高さは1mもあって、花のように見える白い塔のような部分は葉っぱで、葉っぱが螺旋状に茎を被い、中に花と実を包んで、ヒマラヤの4000mの寒さから花と実を守っているのだそうです。一見、荒涼とした4000mの高山の山肌に、これが所々に生えている風景はまるで、どこか遠い惑星のものか、もしかしたら神々の住む地のもののように見えました。
こんなところで神さまは、何を想っているのでしょうか。          this page TOP

01-24: 昨日は用事があり、小学校2年の時に住んでいた、横浜の六角橋商店街という場所へ行って来ました。
想い出の多い所なのですが、商店街がその後どうなっているか心配でブラブラしていると、”ペコちゃん”その他、日本のレトロキャラクターをゴチャゴチャと集めた「ひげのおじさん」というコレクターズSHOPをみつけてしまいました。店主のおじさんは、店名のとおり、ひげをはやしたおじさん。写真ではちょっとコワイ感じで写ってしまったのですが、大盛りの笑顔をしてくれるイイ人です。横浜近辺の方、レトロキャラの奴隷と化している方は一度行ってみてください。HPはまだ作っていないとのコトなので、かわりにこちらで住所電話番号をお知らせ!お勧めです。             this page TOP

01-22: 以前から時々顔を見せるオバさんが来て、覚えていたので話してみました。
歳を聞くと、68とのこと。「でも、メールやってるんだよ」というので、驚いてしまいました。
いえ、驚いたというより、共感した、という感じです。ボケ防止とは言ってますが、メールの利用価値をちゃんと理解して楽しんでらっしゃる。素敵なことです。
私は時々不思議に思うことがあるんですが、それは、「何故、いつの時代も、おばあちゃんはおばあちゃん的スタイルに、おじいちゃんはおじいちゃん的スタイルに、オジさんはオジさん的スタイルになってしまうのか?」ということ。
この「○○的スタイル」とは、カッコそのもののことなんですが。
不思議なんですよ。
だって、例えばあのJOHN LENNONは40ちょうどの歳に撃たれました。それが1980年ちょうどだから、もし生きていれば、62歳です。今のおじいちゃん世代です。でも、たとえばJOHNが青年・中年の時代は、ヒッピーまっさかりの時代で、今リバイバルしている、ベルボトム(ラッパ)ジーンズや、サイケ柄のシャツ、ピースなアクセサリーじゃらじゃら、ロンゲは当たり前、LSDもまだ規制前で、マリファナがんがんにフリーセックス、もちろん今のロックのバクリの原点となるバンドがアメリカでもUKでも現役でバリバリやっていた・・・と、そういう時代だったわけです。
そんな時代を生きていた人達が、何故、昔ながらの”おじいちゃん””おばあちゃん”になってしまうんだろう???
ここ江古田をゆく人達も、いわゆるそういう分かりやすい人がほとんどです。
それから先日TVで中学で社会を教えてる先生の話をやっていたのですが、年齢が45か6.昔はアメリカを旅したヒッピーとのこと。でも、現状は、いわゆる ”カタイおじさん教師”な感じで、若い生徒を前にして、あまり自信なさげな感じで教鞭をとっている・・・。
何故だろう???
もとヒッピーなら、何故もっと、革新的な雰囲気をかもし出しつつ、生徒たちに向かう、ユニークな先生にならないんだろう。そんな疑問をもちます。(そういう方、いらっしゃると思いますが、でもおしなべて・・・)
それが今の日本の文化水準なのかもしれません。
やはり、おじさんはおじさんらしく、おばあちゃんはおばあちゃんらしい感じにしなければ、社会が受け入れてくれない。だから社会に受け入れられるために、せっかく若いころ、革新的なアイディアに引かれてヒッピーをやったのに、いつのまにか、ユニークさを失ってしまうのでしょうか。
ファッション的な自由さ、技術やビジネス的な革新性も大切ですが、日本はもっと、人間の内面的ユニークさを活かせる(受け入れられる)自由さを持つ国になって欲しいなと、思ったりします。
   PS でも”おばさん年代”は別ですね。おばさんぽくない人、多いです。    this page TOP

01-21: このページ第一日目。
ほとんど今、思いついたので、何を書こうかと迷っています。
今、店として考えていることは、”物を紹介して買っていただく”、ということ以外で、いったいどんなサービスが出来るのかな、ということです。
”物”には、その物が持つ、特有の雰囲気やパワーがあります。だから物を紹介するということは(特に消耗品ではないウチで扱うような物の場合)、ただ単に”物を売る”ということではなく、雰囲気やパワーを提供して、それを手にいれた人の精神的な世界観を膨らませる手伝いをする、ということです。
特に反応のダイレクトな実店舗では、そういうことを良く実感します。それを仕入れた私の感覚とは全く違う反応、それほど気にもとめていなかった物に、物凄い魅力を感じて感動してもらったり。物余りの時代と言われていますが、そうやって感動してもらえると、店をやっていることがちゃんと社会貢献になっているんだと、再確認できます。
でも、またそのプラスアルファーで、文化的なソフトの部分をサービスとして提供したい、という、人間的な欲のようなものが出てきます。もっとこの店の役割を実感したい、というような感じでしょうか。それが何なのか、ということを、今、考え中です。                                              this page TOP

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